はるか[責任] その1


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 大学生藤井冬弥と、その恋人にしてアイドル歌手森川由綺。二人には高校時代からの付き合いがあったが、由綺が緒方英二のプロデュースやマネージャー篠塚弥生のサポートによって成功の道を歩むにつれ、会える時間が短くなっていく。
 二人には、共通の友人、河島はるかの存在があった。特に冬弥にとって、彼女は幼稚園以来の幼なじみであり、異性を感じさせない、気の置けない友人であった。やがて、はるかの、高校時代に交通事故で優秀な兄を失ったという喪失感と、冬弥の由綺に対する喪失感が共振していく。やがてはるかと冬弥は空気のような友人関係を維持する事が出来ずに、惹かれあう異性として一夜を過ごす。
 だが、冬弥とはるかは元の友人関係へと戻っていく。はるかは、冬弥に「由綺が泣いちゃうようだったら、私のこと忘れちゃってもいいよ」という台詞を託した。裏切りを経て、冬弥とはるかは親友としての新しい関係を築いていく。
 由綺は歌手としてのビッグイベントである「音楽祭」で、「最優秀賞」の次点である「優秀賞」を獲得した。「最優秀賞」を獲得したのは、緒方英二の実妹である緒方理奈である。
 それから、3ヶ月が経った。


「ふーん…」
 ガラスのストローがくるくると回る。カラカラと氷が音を立てる。
 カラカラカラカラ。
 ちゅうぅ。
 こくん。
「彰…氷入れすぎ」
「ちょい待ていっ!」
 かちゃん!
 俺はコーヒーカップをソーサーに置いて抗議する。
「紅茶も薄すぎ」
「人の話を聞けっ!」
「お茶の葉っぱ普通より増やしてるよ。はるかのには」
 カウンターの向こうから彰の声が返ってきた。
「彰も反応するなっ!」
「氷多すぎたら、溶けて薄くなる」
「そんな多いかなぁ…」
 いつものエプロンをした彰が、タンブラーを持って顔を見せる。
 …ダメだ。
 俺は内心で頭を抱える。
「もういい。はるかに話した俺がバカだった…」
「これ」
 はるかがアイス・ロイヤルミルクティーのグラスを持ってカウンターの方に突き出した。彰はタンブラーと逆の手で受け取ると、グラスを傾けて直接それを口にする。
「…あ。ほんとだ」
「ほら」
「うーん、微妙な氷の量で随分違うもんだねぇ。今度研究しておこうか、冬弥」
 もはや完全に無視されている。
「お茶っ葉の量増やすのより、氷の量が違う方が大きいんだなぁ…」
「ただ?」
「え?」
 はるかの問いに、彰が聞き返す。
「0円?」
 …この勘定は俺に押しつけられることになっている。
「そしたら、冬弥に525円もらうから」
「それはないけどね。いいものがあるよ」
 そう言って彰は厨房に引っ込んでいった。
「あのなぁ…」
 俺は諦めて、コーヒーカップに手を伸ばす。
 ちなみにまだ、口はつけていなかった。よく考えれば、さっき置いた時にこぼれていても不思議はなかったような気もする。そこまで気にしている余裕はなかったが。
 さて、心を落ち着けるために、口の中に香ばしい液体を…
「………」
 …熱い。
 別にコーヒーが熱いのは当たり前だが、そうじゃない。俺の好みの温度とは微妙に…
 彰の奴…いつも言ってるのに…
 と言っても、そんな事に文句を言える状況ではない。
 やるせない気分に満たされながら、熱くて味がわかりにくいコーヒーを喉に送り込む。
 カラカラカラカラ…
 ちゅうぅ。
「…お前、それに文句つけてたんじゃないのか」
 人が憂鬱にしてる間にも、はるかはすました顔でミルクティーを飲んでいた。いつのまにか量は半分ほどに減っている。
「んー…」
 はるかは軽く視線を俺からそらす。
「別に飲めないってほどじゃないし…」
 …の野郎。
 俺はガリガリと頭をかく。
「ていうか冬弥、見てるだけで熱い」
「…仕方ないだろ、俺はコーヒー党なんだ」
 そして、アイスコーヒーは香りが立ち上がらないから却下である。
 ある程度分厚い陶器のコーヒーカップの中に、熱いコーヒー。好物と言うと変な響きがあるが、俺の中では食べ物飲み物の中で一二を争うのは間違いない。
 だから、5月や9月の微妙に熱い喫茶店というのは最悪だ。夏真っ盛りの頃は、鳥肌が立つくらいにクーラーが効いてるから問題ない。
「それで由綺の暇って何日なの?」
 ずるっ。
「お前、聞こえてるんならな…」
「お待たせ。生チョコだよ」
 俺は本気で椅子から滑り落ちるかと思った。
「ゴールデンウィークに北海道の従妹の家に行ったんだけど、そのおみやげ」
 いつの間に席の横にいたのか。彰の手の上には、ココアパウダーがまぶされた正方形のチョコが並んでいる皿があった。
「ありがと」
「3つずつね」
 ご丁寧に、彰はパステルカラーのようじまで皿の上に置く。
「んなこた見ればわかる…」
「彰、ロイヤルミルクティーもう1杯お願い」
 勝手に注文したはるかに怒鳴るだけの気力も残ってなかった。
「アイスね?今度は氷の量減らしてみるよ」
「減らし過ぎないでね」
「うん、やってみる」
 俺はピンク色のようじをつまみ、チョコに突き刺す。独特のふにゅっとした感覚があり、ココアパウダーが小さく舞い上がった。
 粉を下にこぼさないように注意しつつ–––今日はベージュのパンツだ–––口に運ぶ。
「おいしい」
「まぁな」
 はるかの指も、先にココアパウダーのついたパステルブルーのようじをつまんでいた。
 生チョコとブラックコーヒーはあまり相性がいいとは言えないが、少しの間軽いリキュールの香りと滑らかな甘みを楽しむことにした。
「…27だよ」
「え?」
「由綺の暇」
 由綺から電話があったのは昨日の夕方だ。
 ここ1ヶ月ばかり連絡が無かったので不安を募らせていた俺を、沈んだ由綺の声がさらに動揺させた。
 それでも何とか優しい言葉を選ぶように俺は努めた。そうして10分くらい話をしていると、突然由綺は中国行きの話を切り出した。
 同行者は、無論英二さんと弥生さんを始めとするスタッフだ。
 由綺は最初に、その二つの事だけを俺に伝えた。それだけでは情報が少なすぎたのだが、余裕を失っていた俺はパニックを起こしかけた。その後しばらくは、相槌も打たずに由綺の話を聞いていたと思う。
 由綺はあの声で、俺に淡々と、そして済まなさそうに説明を加えていった。
 中国で1ヶ月のコンサートツアーを行うこと。由綺のCDは、既に中国でも発売されていること。上海から始まって、北京で終わるツアーであること。最近電話できなかったのは、そのための準備のためだったこと。
 英二さん、そして由綺の中国進出はかなり前から準備されていたらしい。その事は由綺も気付いていたようだ。それはそうだろう、中国語の発音練習をさせられれば何が準備されているのかは明白だ。
 いや、英二さんの性格からすればそうとは限らないのかもしれないが…。現在のJ−POPの状況を考えれば、中国語圏の進出が意図されている事に気付くのは由綺でも容易だったようだ。はっきりしたのはこの4月らしい。中国でのCDの発売は今月の頭だったそうだ。明確になるまで俺には伝えたくなかったという内容を由綺は何度も何度も説明し、その度に俺に詫びた。
 由綺に関する情報は、これまで由綺自身がほとんど伝えてくれたので、俺は殊更に情報誌やテレビを漁る事はしなかった。もっとも、今回のプロジェクトは最初からかなり秘密裏に進められていたことらしい。
 示された膨大な情報を解釈する余裕は無かったし、その必要もないように思われた。俺にとって重要だったことは、由綺をいつ送り出すかということだ。
 そして、示されたのが27日。その3日後に、由綺は出発する。
 はるかは、俺が言った言葉には反応せず、2個目、3個目の生チョコを口に運んでいた。考え込んでいる様子も、何か言おうとしている様子もない。
「いいよ」
「ん?」
「生チョコ。俺の。食って」
 はるかは躊躇する事なく4個目にようじを伸ばす。
 ピンク色のようじを皿の上に戻し、俺はコーヒーカップを手に取った。甘みとリキュールの香りは舌の上からいつの間にか消えている。
「ふぅ…」
 少し、ぬるくなってしまったコーヒー。俺のため息も生ぬるかった。
 はるかが5個目の生チョコを口の中に収めると同時に、彰がカウンターの向こうに現れた。新しいロイヤルミルクティーのグラスが、真っ黒のトレーの上に乗っている。
 きっと、はるかはまたあのグラスの中の氷をカラカラ…とかき混ぜるのだろう。


"from the truth, from the truth, from the truth..."
 メロディラインに乗った由綺の声が、3回連続で静かに響く。
 一瞬の沈黙の後、スピーディなピアノソロがボリュームを絞ったミニコンポから流れ出した。高校の時から使っているコンポだ。
 このピアノは、英二さんが本当に弾いている部分らしい。プログラムされたシンセとどういう風に違うのか、俺にはよくわからないが。
 そのピアノソロが続く中、ドラム、ベース、エレキギターが順番に加わっていく。そしてAメロにつながるのだ。
 俺は微かに聞こえてくる16ビートに合わせて、無意識の内に右の人指し指と中指でリズムを取っていた。Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロ、サビ、サビ…
 典型的な構成の割に、2番の後に間奏が入っていないのが特徴だろうか。"from the truth"…去年の夏くらいに、結構ヒットした歌だ。
 ピッ…
 俺はリモコンで、シングルCDの回転を止める。
 もう一度1トラックを聞こうと再生を押しそうになって、やめた。
「はぁ…」
 どうにもやるせない。やはり音楽は、下手な映像よりも聞いた当時の状況を思い出させるもののようだ。あの頃は、それこそ飽きるほどにこの曲を聴いていたような気がする。
 ビデオの時計を見ると、19:34を表示していた。
 窓の外は、当然のごとく真っ暗だ。机から窓までは結構離れているため、家々から漏れているはずの灯りの様子もよくわからない。
 まだ夕メシも食べていなかったが、食欲は出そうにもなかった。昼に飲んだコーヒー以来、何も口にはしていないのだが…
 そう考えた瞬間、喉の乾きに気付いた。
 俺は椅子から立ち上がって、3畳あるキッチンの方を見やる。すると、電気が点けっぱなしだった。帰ってきたのが4時だから、5時間の間使いもしない電気を点けてたことになる。
 まぁ、その程度の事はどうでもいいことだ。
 俺はキッチンに入り、冷蔵庫の中からコンビニで買ってきた1リットルのオレンジジュースを取り出した。流し台のカゴで逆さまになっていた大きめのタンブラーをつかみ、そこに思い切りジュースを流し込む。
 500ちょっとは入っているように見えた。
 タンブラーを傾けると、飲み慣れた爽やかな味が広がる。まがりなりにも濃縮還元100%なのだ。ましてや喉の乾きが十分なのだから、200円のジュースでも身体は喜びをもって受入れる。
 意味もなく俺は一気飲みすることにした。タンブラーの傾きを段々大きくしていき、最後には90度にする。さっき流し台で水を切っていたのと同じ状態だ。
 最後の一滴までジュースを飲み干し、だんという音を立てて蛇口の真下に置く。
 口元から少しこぼれてしまったのを、俺は流し台にかけてあった白い布巾でふいた。
 …何やってるんだろうな。
 そして、多少の反省の念と共に自嘲する。
 白状すれば、俺は"from the truth"を帰ってきてから数十回聴いていた。回数まで数えるのは、さすがにバカらしくなって途中でやめたが。
 自然と、目がタンブラーに行ってしまう。
 我が家には、同じ形の食器は一個もない。それで十分やっていけるのだ。由綺とお揃いのコップなんて、必要になったためしがない。由綺とコーヒーを飲むとしたら、「エコーズ」にある、あの分厚くて少しくすんだ白の、陶器のコーヒーカップ。
 由綺も、俺ほどではないにしろ、コーヒー党だった。それで、少しの間だけ同じ飲み物を飲むという幸せを分け合う。時として弥生さんが由綺の横にいることもあったが、弥生さんは俺と由綺の話に関与することはなかった。
 弥生さんが俺を利用しているという感覚に腹を立てた事も無いわけではない。だが、それに関しては俺の中で何とか決着がついている。
 いや、別に由綺とコーヒーを飲む事が2,3ヶ月なかろうと、連絡が1ヶ月途絶えようと、自分の中でケリをつけてしまうだけの度胸は出来上がっていたはずなのだ。
 この「自分」というのは、当然「自分」の中、俺の中に存在している「由綺」も含んでいる。
 …はずだ
 ………
 俺は、目を閉じた。そして鼻孔から大きく息を吹き出した。
 どうも、気に入らない。何が?
 その答えは、あまりに月並みで、脳の中に呼び出すのさえ鬱陶しかった。
「"from the truth"じゃねーよっ!」
 俺は唐突に一人叫び、後頭部を自分で叩いた。
 ぱんという間抜けな音がする。意外と痛そうな音だったが、実際にはそれほど痛くなかった。
「あーぁ…」
 FとRとTHの発音が正しかったかどうか不安になった瞬間、英二さんの顔が脳裏をよぎる。
 "わたしは、truthが、気に入らない"
 どう見ても英二さんの歌詞には採用されそうになかった。
 しかも、冷静に考えると俺の思考とは全然違う内容を表現している文じゃないか。
 挙げ句の果てに、ダブル・クォーテーションを日本語の文に使っていた。
 俺が嫌いなのは…
 俺が嫌いなのは…
 微妙にリズムとメロディをつけて、小声で口ずさむ。
 ところで、無性に腹が減ってきたようだった。
「ラーメンでも食いにいくか…」
 あまり意味のない一人言が、どこからか出てくる。
 俺は蛇口をひねった。水が勢いよく飛びだし、タンブラーの底に叩きつけられる。そして白い泡が一杯に注ぎ込まれた。
 別に石鹸水や炭酸水が出てきたわけではない。いくら東京でも、塩素ぐらいしか水には入れていけないのだ。
 泡はあっという間にぷちぷちと弾け、不自然なほど静かな水面が、タンブラーの中に現れる。僅かにこびりついていたはずのオレンジジュースは、最初の水の勢いで一気にはじき飛ばされたようだ。即席で、意図無しで作られた水面にしては、悪くない面持ちをしていた。
 俺はそのタンブラーを放置して、流しに背を向けた。


 キイイィィィー…
 ん?
 ガシャアアアァァン!
 これは…
 何となく身体が気怠いせいか、聞こえてきた音が何を意味しているのか理解するのにたっぷり1秒かかった。
「はるか…」
 さすがに四度目になると、心配よりも呆れの方が先に立つ。
 と言っても、これだけ派手な音を立てられると、怪我をしている可能性は否定できない。
 そう思って、結局三回とも大した怪我はしていなかったが…
 俺はきょろきょろと辺りを見回し、はるかの姿を探す。
 …あれ?
 見あたらない。それもおかしな話だが。マンションの敷地を出たすぐの所にある道路。前にも一回轢かれそうになった所だ。
「…はるかー?」
「冬弥」
 ?
 俺が後ろを振り向くと、果たしてはるかの姿があった。
 ATBは、既に起こされてマンションの出入り口の所に止められている。
「お前な、俺がぼーっとしてたのも悪いけど、俺を避けるのにどうやったら道路からマンションの中に突撃するんだ?」
「これ」
 相変わらず、人の話を聞いちゃいない。
 はるかは、レザーグローブをはめたまま、右の手の平を差し出していた。
 その上には、何か青っぽい棒が乗っけられている。グローブが黒なので、コントラストだけはよくわかった。もっとも、棒が小さすぎて、一体何なのかはよくわからない。
「あげる」
 俺は一歩足を進め、はるかの差し出している物をのぞき込んだ。
 …ようじ?
「なんだこりゃ?」
 彰が持ってきた生チョコを食べる時に使った、ようじだ。確か、はるかが使っていたやつ。
 何となく、俺はそれをつまみ上げる。食べた後に洗ったのか、先から根本まで綺麗なパステルブルーだった。
「これ、どうしろって言うんだ?」
 はるかはその問いには答えなかった。くるりと後ろを振り向くと、マンションの入り口に向かって歩き出す。
「おい?はるか?」
 ATBの脇をすり抜け、すたすたとマンションの中に入っていく。
 …俺は、今から出かけるんだぞ。
 その台詞が、なぜか喉の奥につっかえた。
 はるかの姿はもう見えない。
 あいつ、俺の部屋に行く気か?鍵、閉めてきたのに。
 なぜか、身体が金縛りになったように動かない。声も出ない。
 焦燥感の固まりが、喉の奥からこみ上げてくる…


「!!」
 ………………
 ……………… 
「っはぁ…」
 俺は絞り出すように、吐息を吐き出した。
 うっすらとした汗を、全身に感じる。ジーンズだったら、もっとひどい目にあったろう。
 ぼんやりと天井を見上げる。
 外を走る車の音がする…近づいてきて、すぐに遠ざかっていく。
 まだ、真夜中にはなっていないだろう。時計を確認する気はしなかったが、何となくそんな気がした。
「ふぅ…」
 大きく頬を膨らませて、もう少し余裕のあるため息をつく。
 なんで…こんな夢見るかな…
 自慢じゃないが、俺の見る夢はいつも「追体験」みたいな奴だ。
 由綺がデビューした時、俺の部屋に訪ねてきた夢なんかは何度か見た事があるが、こんな夢を見るのは滅多にない。いや、多分一回もない。
 布団の中からもぞもぞと手を出し、額に当てる。
 汗のせいか、ひんやりとした感覚があった。これだけじゃよくわからないが、熱があるって事はないだろう。寝る前までは普通の体調だった。
 ただ、腹がもたれている。
 やっぱ、ラーメン食ってすぐに寝たのが原因か?
 消化には良くないと思ったが、妙な疲れがあって、着替えもせずに布団にもぐり込んだのだ。
 ばさっ。
 俺は片手で布団をはね上げる。タオルケットも一緒にだ。
 めくれ上がった布団を、両足で蹴っ飛ばした。
「よっ、と」
 俺は勢いをつけてベッドの上に起き上がる。
 床に降りてビデオの時計を見ると、22:04だった。
 2時間も寝ていない。その割には、頭はすっきりしていた。変な夢を見たのに頭がすっきりしているというのもおかしいが、きっと睡眠のサイクルに合っていたんだろう。ノンレム睡眠とレム睡眠って奴だ。
 しかし、腹のもたれは収まっていない。
 俺はキッチンに入って、電気を点けた。そう言えば、ラーメンを食いに行っている間、また電気を点けっぱなしだった。
 エアコンの季節になる前に節約癖をつけなくちゃな、と思いつつ、冷蔵庫を開ける。そして、またパックのオレンジジュースを取り出した。
 流し台のカゴからコーヒーカップを取り、ジュースを注ぐ。うちには、タンブラーとこのコーヒーカップしかない。もちろん、コーヒーを入れる事なんて滅多にないのだが。実家では勝手に豆を買い込んできてミルで挽いたりしていたが、一人暮らしでは面倒臭すぎるのだ。
 サイズの都合上、250くらいしか入らない。
 コーヒーカップで一気飲みをする気にもなれず、俺は少しずつジュースを飲むことにした。
 部屋に戻って、電気を点ける。
 パチパチっという明滅の後、蛍光灯が部屋を照らし出した。
 ついでに、窓際のボールライトのスイッチを入れる。
 ぱちっ。
 そして、オレンジジュースを一口飲んだ。
 最近はこのボールライトの電気もあまり入れてなかったが、久々に見るとなかなか悪くない。横に置かれたゼラニウムの鉢が真横から微妙な光線を受け、いつもと違った趣を見せる。
 この部屋に引っ越してきた時は、インテリアをあれこれ考えるのも楽しかった。無論、親父の気まぐれで一人暮らしが出来るようになった事への喜びというのも大きかったかもしれない。
「………」
 やっぱ、やめた。
 ぱちっ。
 俺はボールライトのスイッチを切ってしまう。ゼラニウムの鉢はいつも通りの姿に戻った。なぜかは知らないが、葉っぱの一枚一枚が座り込んで抗議をしているようにも見える。
 そういや、この鉢って「一応名前知っているから」って理由だけで買ったんだよな。
 オレンジジュースを、また一口。
 窓の向こうの暗闇に、敷地内に植えられた木が見える。
 二面採光の部屋が見つかった事を、当時は結構喜んでいた。それが家賃にも反映されていたのだが、開放的な雰囲気を俺は一発で気に入った。
 無論、由綺にも見せようとしていた。事実、引っ越し一日目に由綺は…
 トゥルルルルルルルル。
「っと」
 俺は出窓にカップを置いた。
 トゥルルルルルルルル。
「はいはい…」
 電話は玄関から入った所のカラーボックスの上に置いてある。
 トゥル…
「はい、藤井です」
『あ、もしもし。緒方だけど』
 え?
「あっ…あ、どうも、久しぶりです…」
 英二さん?
『相変わらず勤労青年やってるのか?局の方には最近来ていないみたいだけど』
「え、ええ、まぁ…」
 なんだかんだ言って、俺はADの仕事からは遠ざかっていた。「もうちょっと給料上げるように言ってやるからさ」というのも、あながち嘘ではなかったらしい。が…やはり抵抗感があった。
『まぁその話はいいや。あ、別に来たくなったらいつでも口は利いてやるよ』
 そうだ。
 英二さんみたいな人が、わざわざ俺に世間話の電話をしてくるわけがない。
「あの、由綺、中国行くって…」
『うん、察しはつくと思うが、その話なんだよ』
 落ち着け。
 俺は、自分自身に強く言い聞かせた。
『緊張してるな』
「えっ…」
 ダメだ。
『気持ちはわからんでもないが、もっとリラックスした方がいいぜ、青年』
「はぁ…」
 今の俺が、余裕をもって英二さんの話を聞けるはずがない。しかも電話だ。ある意味では、直接会って話を聞いているよりタチが悪かった。
『まず、由綺の方から今回の話は大体聞いていると思うんだけど』
 英二さんは由綺を「由綺」と呼んだ。
 重要な分岐点を通り過ぎてしまったような感じが、じわりと広がる。
「…ええ。多分、由綺は自分の知っている事で、口止めされていない事は全部言ったでしょうから…」
 「口止め」の部分を多少皮肉っぽく言いたかったのだが、無理だった。
『うん』
 英二さんは満足したように答えた。
 ひょっとすると、気のせいかもしれないが。
『でな、一ヶ月間、由綺は日本から離れるわけだ』
「はい」
『一ヶ月は結構長い。音楽祭から、まだ三ヶ月経っていないんだからな』
 悪寒が走る。
『しかし、音楽祭から由綺はよくやったよ。去年の暮れから俺のスタジオに泊まり込みでずっと練習して、理奈の次点もぎ取ったと思ったらウォー・シィー・ヨウ・チィーだもんな』
「はぁ」
「もっとも、由綺は発音に関してはかなりセンスがいい。いや、真面目な話、理奈よりも中国語の発音は上手いんじゃないかな」
「…あの、理奈…さんも…中国行くんですか?」
 話題が世間話みたいになってきたせいで、つい俺は口を挟んでしまった。
 よく考えると、理奈ちゃんをさん付けする人間なんて、音楽番組の司会者くらいな気もするが…。他に、適当な呼称は見つからなかった。
「ああ、でも先発は由綺だ」
 英二さんはその事に触れず、普通に反応を返してきた。
「そうすると…」
『で、本題に入りたいんだが』
 …っつ…
 自分で話題を引っかき回しながら、決して俺に会話のペースは与えてくれない。だが、それに怒りや不快感を感じることが出来るほど、今の俺には余裕がないのだ。
 英二さんは、あまりにも適切な間を取る。受話器の向こうからにじり寄られているようにすら思えた。
『俺ね、あの後、由綺に何も言ってないよ』
「……え……」
 最初に俺の頭の中に入ってきたのは、二つの読点だけだった。
『そうだな、そろそろ半年か。禁欲も』
 全く変わらない口調で英二さんは続ける。
 由綺に…
『中国絡みの方でも、スタジオの方にずっと来ていたしな。由綺に合わない日の方がよっぽど珍しかった』
 小さいため息が受話器から聞こえる。
『由綺は由綺で、全然態度に出さないんだな。音楽祭の後はちょっとぎくしゃくしてたけど。いや、真面目な話、音楽祭の時の事忘れたのかとも思ったぜ』
 音楽祭の、時のこと…
『今は中国行きに集中しすぎて何も見えてない。いや、何もってのは言い過ぎか。なぁ、青年?』
 静かな口調はそのままに、やや強さが感じられる呼びかけ。
「…は…」
 霞がかっていた頭の中に、意識が戻ってくる。
 英二さんの言葉は続かない。俺の、返答を待っているのだ。
 だが、情けなくなるくらい、俺は混乱していた。
「そう…ですね…」
 考える余地は無かった。曖昧ながらも、肯定の返事を選ばざるを得ない。持ち時間を奪われた将棋みたいなものだ。
 肯定した。その事実が、じんじんと脳に響いた。
『だな。由綺は、君に1ヶ月ぶりに電話したわけだ。いい加減な別れ話を持ち出して、放っといてる彼氏にな』
 沈黙、せざるを得ない。
『27日はどうしようと勝手さ。由綺は朝から晩まで完全にフリーだ』
 英二さんも俺の返事は期待していないだろう。
 世間話みたいな口調を維持したまま、話は続く。
『その事の意味を、由綺は十二分に理解している。俺が由綺に27日フリーの事を言った時、由綺がどんな表情をしたかわかるか?』
 わかる…と俺は言いたかった。
 だが、俺はその台詞があまりに欺瞞的である事を十分に理解してしまっていた。
『しかしなぁ、中国語で歌詞作るってのもなかなか難しいもんだ。君は中国語を勉強したことないよな?』
 ………
 俺は、自分の声を出すために咳払いをする必要があった。
 ケホっ。
「すいません…、えぇ、ないですけど」
『漢字って表意文字だからな。英語の歌詞を作るのも勝手が違うけど、中国語はもっと厄介だ』
 ひょういもじ、という言葉を漢字に変換するのに2秒ほどかかる。脳の動きがいつもの半分くらいになっている気がした。
「そうでしょうね、確かに」
 だが、口ごもらず、普通の返事をする事が出来た。
 俺はその事実に深く感謝するとともに、嫌悪した。
『例えば、だ。日本語で「私の涙がこぼれる」は…12音か。それが中国語だと半分で済む』
「なるほど」
『要するに、日本語の感覚でやってると饒舌になりすぎちゃうんだな。逆に向こうの連中がJ−POP作ると、淡々とし過ぎているのが出来上がる』
「わかります」
 極めてよどみない相槌が滑り出してくる。俺は、昔ADのバイトをやった時に見たアナウンサーにでもなっている気がした。
 生(なま)で見る非凡性はブラウン管で見る非凡性と明らかに違う「何か」があるが、平凡性にも同じ事が言えると思う。
『つまるところは、適度なメッセージってことか。情報量の多さで偉さが決まるんだったら楽なんだが。そりゃ違う。だが、だからこそ面白いんだな、これが。もう28になるオヤジの台詞じゃないかもしれないが、挑戦精神はそうそうバカにするもんでもないだろ』
「…ええ」
『保身を考える小賢しい人間は現実世界で十分だし、バカな挑戦者はJ−POPの歌詞で十分だ。そうだろ?』
「は、はぁ」
 現実とJ−POP、以外の世界…?
『…え?あぁ、そうなの、わかった、今行く』
 突然英二さんの声が遠くなった。
『まぁ、そんな感じで、なんだ。今度「エコーズ」行くよ。まだそっちのバイトはしてるんだろ?』
「はい、毎日ってわけじゃないですけど」
『うん、どうも最近足が遠ざかっていてねぇ。じゃあ、また今度』
 プツ。
 ピッ。
 英二さんに一瞬遅れて、俺も「切」を押していた。
 そのまま受話器をぼんやりと眺める。
 数秒もすると、倦怠感は受話器を叩きつけたくなるほどの衝動へと変わっていた。
「………」
 ぽふ。
 叩きつけこそしなかったものの、俺は無意識の内にそれをベッドの上に投げる。
 寝るしかない。
 俺は8畳のフローリングの上で、黙々とベッドに歩みを進めた。
 ベッドの前で、靴下を脱ぐ。先程の睡眠のせいか、靴下は不快な湿り気を帯びていた。それを脱ぎ捨て、素足でフローリングの冷ややかな表面を感じると、子供っぽい開放感が感じられる。
 そして、ばたんと倒れ込むようにして、俺はベッドに寝転がった。
 仰向けになろうとする動作の途中、布団の上に転がっている受話器をつかむ。
 俺はそれを枕元に置いた。
 タオルケットも掛け布団もいらない。ただ、開放的に眠るのが、最大の慰みになるように思えて仕方がなかった。


-next-