はるか[責任] その2


 ………
 眠れない。
 当たり前のようにも思えるし、俺が幸福から突き放されてしまったようにも思える。
 何も掛けずに寝ようとしたのが良くなかったかもしれない。適度な重さが身体の上に掛かっていないと、かえって安心感が損なわれると聞いたことがある。
 ごろん。
 寝返りを打って、俯せになる。
 その時点で、無為の睡眠から見放された事は経験上理解していた。寝返りを打ちながらいつの間にか眠っていた事なんて、ただの一度もない。
「…はぁ…」
 今日はため息をついてばかりだ。その中でも、最も大きく憂鬱なため息が枕に吸い込まれていく。
 無論、俺が何かに対してため息をついてしまったという事実が生まれれば、思考停止に安住する事は許されない。
「わかったって…」
 誰に対してともなく、つぶやく。
 俺は、嫌になるほどもつれてしまった糸をほぐす作業を始めた。
 もっとも、もつれて見えるのは表面上の事だけで、ちょっと選り分けてみれば綺麗なものだ。ものの数十秒だった。
 俺の前に、何本かの糸が整然として並ぶ。
 ごろん。
 また寝返りを打って、仰向けに戻った。
 目を開くと、微かな光に照らされた天井が薄青く見える。結構長い間目を閉じていたはずなのだが、眩みは無かった。
 しかし、俺の前に並んだ糸は、残像のように残り、消えなかった。
 ぼーっとしてると、それがレポートか何かの上にある箇条書きみたいに見えてくる。機械的に、俺に迫ってくる。
「結局。俺は、どうすればいいんだ?」
 小声でつぶやく。
 現実世界に対する感覚を保持しないと、幻覚の中に埋没してしまいそうになるのだ。
 と言ってもベッドから起き上がるほどの気力は無かったし、この幻覚を放置してしまうほどに俺は不誠実ではなかった。
 ごろん。
 さらに寝返りを打ち、横になった。
 一分もしない内に、俺は三回も姿勢を変えたことになる。まぁ、眠れない時というのは、大体こんなものだろう。
 実際、俺は眠りにムラがある方だった。精神が不安定になると、不眠症もどきの症状に襲われることもある。身体が疲れていれば消えてしまう程度の、軽い不眠症だが。
 さて…と。
 俺はふと手を伸ばし、枕元を探る。
 固い感覚があった。
 何となく、それを掴む。
 溺れる者は、受話器をも掴む、か。
 美術史の授業で見た、静物画が脳裏に浮かんでくる。
 この瞬間を静物画として描いたならば、どうだろうか?
 しかし、絵心のある俺の知り合いは、彰ぐらいしかいなかった。
 だったら、英二さんに言葉で切り刻まれた方がマシだな。
 ヴィーヴーヴィッ。
「……?」
 突然機械音がした。
 一瞬遅れて、それがビデオの起動音だという事に気付く。
 誰がビデオの予約なんかしたのかと、腹立たしくなった。
 つまり、11:00を回ったということだ。カウントダウン系の音楽番組が始まったはずだった。
 集計のタイミングがCDリリースとほぼ連動している事が特徴の番組だ。日本中国同時リリースという、由綺の新曲がランクインしている可能性は高かった。
 前は、結構この番組をチェックしていた。ただ、土曜はバイトを入れている事が多かったため、ビデオに撮って日曜の朝見るというパターンが普通だったのだ。
 土曜、11:00、ビデオの起動音。
 ………
 その3つがスロットマシーンみたいに並んだ瞬間、妙な眠気が襲ってくる。
 快楽的なまでに心地よい睡魔だった。少しの罪悪感が、逆に眠気に拍車をかけていく。
 ………


「ふー」
 口の中が、完全に甘ったるい薬味(くすりあじ)になる。
 一度弥生さんに教わって以来、栄養ドリンクは癖になっていた。
 前は水でも飲まないとやっていられなかったが、今では慣れっこになってしまっている。それに、割合緑が多めのキャンパスを通り抜ける風は、都会的な自然の気持ちよさの代弁者のようなものだ。
 梅雨の、少し前にだけ。そうしたら、次は秋までお預けだ。都会人にとって、夏と自然は相容れないものだ。だから、逃げだす。
 とはいえ、逃げる時の事は逃げるときに考えるのが普通だろう。俺もそれに従う事にした。ぼんやりとしながら、Tシャツの袖がぱたぱたとはためくのを楽しむ。
 がしゃん。
 それに飽きると、俺はゴミ箱の中にビンを放り込んだ。
 フタは燃えないゴミに捨てる。
 生協の前には、燃えるゴミからペットボトルまで、15個もゴミ箱が並んでいるのだ。
 今飲んだ栄養ドリンクも、当然生協で買ったやつだ。店の中では飲めない事になっているので、店から出て一気飲みした。
 目の前を、ヒマそうな顔をした男が通り過ぎていく。黒の長Tにジーンズ。
 向こうが俺を見る目も、似たようなものだろう。白の長Tにジーンズ。クラシックのリーボック。
 辺りに見える学生の数は、あまり多くなかった。まだ午前中の授業をやってるはずだから、こんなものだろう。昼メシ時になれば、キャンパスの中で最も人の多い空間が出来上がる。病み上がりの人間としては、勘弁して欲しいところだ。
 俺はまた店の中に入った。
 店の中にも、それほど人は多くない。この時間相応といった所だ。
 入り口近くには色々なドリンクが並んだ棚が並んでいる。もちろん栄養ドリンクも並んでいた。
 そう言えば、ここで栄養ドリンク買ったのを由綺に見つかった事がある。心配というか説教というか、とにかく栄養のある物を食べろと言われた。
 栄養のある物を飲むんじゃいけないのか、と切り返そうかとも思ったが、真面目に返されそうなのでやめておいた。今年の冬、珍しく由綺が大学に来ていた時のことだ。
 そんな時に風邪を引いた俺も俺だが、あの頃はどこで由綺に会うにしてもまるっきり唐突だったような記憶がある。会いたいと思っていても会えなかったり、何となく行った所で突然会ったりしていた。
 ちなみに、三年になってからは一度も大学の中で由綺に会っていない。単位を揃えられるのか、俺すら心配だった。
 と言っても、音楽祭と単位を無理矢理両立させた由綺なのだから、また何とかするのだろう。
 俺はドリンクのコーナーを抜けて、二階に上がる階段へと向かった。
 この生協は一階が食べ物と飲み物関係になっていて、二階が文房具や本、それとCDなんかのコーナーになっている。品揃えは「生協並み」といったところだが、割引があるので使えないこともない。
 階段の壁には、本やCDの宣伝が所狭しと貼ってあった。出来合いのポスターも多いが、マジックとかで書かれた宣伝文句も多いのが生協らしい。
 ごほっ。
 ちょっと階段を上ったところで、咳が出てくる。
「やれやれ…」
 5月と言っても、何も掛けずに寝れば相応のダメージは来る。昨日の朝計ったら、7度3分だった。俺の平熱は6度ちょうどなので、7度を超えると結構辛いのだ。
 自分のバカさ加減に呆れつつも、俺は日曜を寝て過ごした。
 そして今日の朝計ると、6度9分。微妙な所だったが、俺は普通に大学に来た。色々と用があったのだ。
 幸い、咳は一回で収まった。概ね治っているのは間違いないようだ。
 少し空気が悪いのかもしれない。この季節なんだから、窓を開けてもいい気はするのだが。
 俺は階段を上りきると、書籍部に足を向けた。
 その中の一角にある雑誌コーナー。そのまた一角に、音楽雑誌を置いてある所があるのだ。
 結構需要があるのか、カラオケや弾き語り用の楽譜雑誌から、インディーズを扱った少しコアなものまで置いてある。俺は『J-J』を買おうと思っていた。新曲情報からアーティストへのインタビューまで、音楽業界の話を全般的に扱っている雑誌だった。
 多分、それを買えば由綺の中国行きの話も載っているだろう。一歩間違えば、前号くらいで特集が組まれてしまっている危険性もあるのだが。
 雑誌コーナーは、書籍部の中でも一番階段に近い、目立つ所にある。申し訳程度に置かれた文芸誌や論壇誌を過ぎると、目当ての場所に着いた。
 『J-J』はいつものように平積みされている。俺は、その表紙に書かれている文字に目をやった。
 だが、「緒方英二」「森川由綺」という単語は見えない。R&Bの新ユニットへのインタビュー、日本のヒップホップをけなす記事…。
 俺は顔を上げ、並べられた雑誌の表紙から「森川由綺」という単語を探してみた。最初に目についたのは、カラオケ雑誌の新譜紹介。さらに探すと、一つの雑誌が目に止まった。
「逆説の癒し系 緒方理奈 究極の癒し系 森川由綺」
 俺は一瞬目を奪われ、混乱し、解釈を試みる。
 リーダに、「戦略家 緒方英二」とあった。
 誰が置いていったのか、平積みにされている雑誌の上に一冊だけぽつんと置いてあった。きっと、月に二、三冊といった数で入荷している雑誌なのだろう。他に並べられた雑誌に比べ、一回りサイズが小さい。文芸誌とかによくあるサイズだ。
 納得のいかない頭のまま、俺は表紙に使われている写真に目をやった。
 新宿の地下道かどこかだろうか。人が行き交う中、柱に理奈ちゃんと由綺のポスターが貼られているというものだった。写真の中のポスターは、お世辞にも綺麗とは言い難い。数週間前に貼られた、といった感じだ。由綺の方は隅が破れかかっているようにも見えた。
 それでもポスターは剥がされず、柱にしっかりと貼られているのだ。
 モーションブラーが掛かって、ぼやけた人々の中にある由綺と理奈ちゃん。
 『J−POP批評』
 俺は、雑誌を買うのを諦める事にした。


「お」
「あ」
 生協を出ようとすると、はるかが店に入ってきた。
「お昼買ったの?」
「あ、そうだな」
 すっかり忘れていたが、ここに来た目的の一つは早めに昼メシを確保することだった。
「今から買うわ。はるかもか?」
「うん」
 ドリンクの棚から安い紅茶を取り、パンの棚の方へと向かう。
 はるかはスポーツドリンクだった。前みたいに缶紅茶ではない。はるかの荷物はスポーツバッグとラケットなのだ。
「練習してきたのか?」
「うん」
 練習した事を誤魔化さずに答えるようになったのも、結構最近の事かもしれない。3月頃は、練習してきたのかどうか聞いても、ボケてばかりだった。
 あの冬から、確実にはるかは変わり続けているように思える。
 まだサークルに入ったりはしていないようだが、地道に自己トレーニングを続けている事はこうして見ていればわかる。元々、継続した努力を続ける才能は人一倍ある奴なのだ。
 もっとも、やる気のない受け答えだけは相変わらず変わらなかったのだが。五年間の間に染みついた喋り方は、そうそう簡単に治るものではないらしい。
 だからこそ、時として見かける真剣な練習風景とのギャップは、見ていて可笑しかった。
「冬弥ー」
「ん?」
「お弁当ある」
「はい?」
「お弁当」
 はるかはスポーツバッグの中を開けた。
 着替えやタオルが入っているとおぼしきバッグの他に、ナプキンに包まれた弁当箱とおぼしきものが入っている。
「…じゃあ、先に言えよ」
 俺は既にポテトサラダのパンを取りそうになっていた。
「つか、万引きと間違えられるような事してないで、さっさと行くぞ」
「ん」
 俺達は入り口の方に取って返した。
 はるかのスポーツドリンクを受け取って、レジで金を払う。
「ありがと」
「…って、冷静に考えると、今日俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」
 店を出ると同時に、素朴な疑問が生まれる。
「冬弥、今日必修入ってる」
「そりゃまぁそうだが…」
 微妙ないい加減さは、やはり変わっていないようだった。
「で、どこで食べる」
 今日は一日中過ごしやすい陽気に包まれるでしょう、とは天気予報士の弁だった。この季節は、余計な猜疑心を持たないで済むからいい。外の空気に触れた瞬間、お前の言うとおりだよ、うん、とキャスターの肩でも叩きたくなる。そんな季節だ。
「公園」
「は?」
 ここから歩いて小一時間はかかる。
「…お前は、俺に必修を切れと言うのか」
「公園」
 はるかは表情を変えず、俺の方すら向かずに続けた。
「しつこいっ。わーったよ、行けばいいんだろ、行けば」
 実は、次の必修は出席が無い授業だった。
 だから、月曜は気分次第で大学に来ない事もあり得る。今日俺が来なかったら、というのも十分あり得る話だったのだ。
 この性格を、愛嬌と見るべきか。
 結局髪の毛を伸ばしていないはるかの後ろ頭を見ながら、俺は思った。


 公園、といっても広いが、はるかが向かったのは奥まったところにある小公園だった。
 人気のない所だから、はるかの弁当を食べるにはちょうどいい所だ。こんな昼間に公園に来る人間は元から少ないのだろうが、噴水の周りなんかには人がいないわけではなかった。
 手作りと明白な弁当だ。さすがに、二人で食べている姿を他人に見られたくはない。俺が恥ずかしがろうものなら、捨て身でからかってくる奴だ。いや、捨て身という言い方は正しくない。本人が全然気にしていないのだから…。
「どうかしたの?」
 弁当を広げようとしているはるかが、聞いてきた。
「いや、なんでもない」
 しかし、一応4ヶ月ぶりか。
 出てきた弁当は何となく予想していた通り、サンドイッチだった。
 俺は石のベンチに座る。
 ひんやりと冷たく、日差しは暖かく、風は優しかった。
 クリスマスの夜とはあまりに違いすぎる。同じ場所だという事が疑わしいほどに。
「はい」
「さんきゅ」
 俺はラップで包まれたままのサンドイッチを受け取る。
 ラップを取ってみる。とりあえず、外見からの詮索は無しで食べてみる事にした。
 大きく一口。
 うーん…
 前回とは打って変わって、サーモンとチーズ…か。
 さらりとした感触の、癖のないチーズだった。チーズには詳しくないのでわからないが、食べやすい。
 それだけだとサーモンの匂いが消しきれないと思うが、トマトが入っているので無難な味に収まっている。そして、微かなハーブの香りがする事は前と変わっていない。
 ひょっとするとハーブの種類が変わっているのかもしれないが、さすがにそこまではわからなかった。
「うまい」
「そう」
 予想した通り、あさっての方向を向いて答える。
 うまいのは事実なのだから仕方がないが、もう少し気の利いた表現を使いたかった。心の中で行った詮索を伝えたいわけではない、もっと別の何か。
 ぷし。
 俺は缶紅茶のプルタブを上げ、少し飲んだ。無糖を選んで正解だろう。サンドイッチやおにぎりに合うという触れ込みの紅茶だ。
 表面にコピーを印刷されつつも、そこは77円。味の面では何も主張していない辺りが潔かった。
 そして、サンドイッチをまた頬張る。
 個性の強い味は、こんな爽やかな空気の下でこそ楽しめるのかもしれない。
 芝生は綺麗だし、木々は健康的に深緑の葉を繁らせている。
「まったく行政さまさまだなー…」
 何となく口にした言葉に、はるかは反応しなかった。自分の作ったサンドイッチを黙々と口に運んでいる。髪質が細めなせいか、はるかのショートカットは始終風にゆらされていた。
 って、冷静に考えると、全然脈絡のないはるかみたいな台詞だったな。
 どうも、こいつの隣にいると影響される…
 俺は缶紅茶を大きく傾けた。
 結局、何も変わっていない。
 季節と、サンドイッチの中身と、飲み物と。
 そんな物だけが、姿を変えて俺の前に表れる。
 「変わったのはポップスのチャートだけだ」という使い古された言い回しも、俺には通用しない。
 はるかの髪の長さ。
 ポップスのチャート。
 この空間。
 「些細なもの」と言うだけで済まされないものが、俺にとっては有意味な変化を見せていないのだ。
 いや、この台詞は傲慢に過ぎる…
「……!?…づめたっっ!!」
 背中に激痛が走る…じゃない、とんでもない冷たさが走る。
 俺は全身を痙攣させて悶絶した。
 ごとん。
 何か、重い物が落ちる音がする。それと同時に、冷たさは消滅した。
「…っはぁ、はぁ、はぁ…」
「ぼーっとしてるから」
 はるかの声が遠く聞こえる。
 涙目を開けると、はるかが地面に落ちた500ml缶を拾い上げていた。
「…て、てめぇ…」
 どうやら、Tシャツの背中に入れられたらしい…子供か…
 受けた被害の大きさを考えると、とても子供のいたずらで済ませる話ではないのだが。
 俺の缶紅茶は地面に転がっていた。どくどくと中身を土にぶちまけている。
 服にかからなかったのは幸いだが…。
「はるかっ!」
「自業自得」
「嘘つけ!」
 やっとの事で、俺は体勢を立て直した。
「あつつつつ…」
 俺は頭を押さえる。暴れ回ったときにベンチにぶつけたのだ。しかも、石のベンチ。
「私のせいじゃないよ、それ」
 しらっとはるかは言う。そして、いつの間にか開けたスポーツドリンクを飲んでいた。
「この貸し、いつか返してもらうからな…」
「はい」
 はるかはサンドイッチを差し出す。
「お前なぁ…」
 仕方なく、俺はそれを受け取った。
 ラップを剥いて口にすると、さっきと同じサーモンの風味が広がる。そして、最後にハーブの風味。
 繰り返し…
 俺はこの平凡な言葉を、今ほど恐れた事はなかった。
 はるかの顔を見る。
 何も読めない。はるかははるかだった。何年も眺めてきたままの、人なつっこそうなのにやる気のない瞳。少しウェーブのかかった、軽くてさらっとした髪。
 俺には、どうしようもない。
 そして、たっぷり4時間、俺達は公園にいた。
 水筒のレモネードが出てきたので、飲み物に困る事もなく時間は過ぎていった。会話らしい会話も、ほとんど交わした覚えがない。まるで草木の中に溶け込んでしまったかのように、佇んでいた。
 と言っても、俺は別にアニミズム屋ではない。あまりにも長い間眺めていたために、草木に溶け込むなんて観念が生まれたのだろう。1時間ほど検討した結論としては、排ガスを吸収した木々でも、ポリエステル50%のTシャツよりは誠実だろうということだった。
 一度も人影を見る事は無かった。ひょっとすると鳥の影すら見なかったのではないかと思う。
 やがて太陽は遠くに見えるビルの群れに近づいていった。風は、陰気な肌寒さへと姿を変えていった。俺は水筒のフタの中に半分残ったレモネードを、30分あまりも持て余していた。
 俺が何か言おうとした瞬間、はるかが立ち上がり、荷物を片づけ始めた。
「なぁ…」
「ん?」
「俺達…」
「ばかみたいだね」
 吐き捨てるようにはるかが言った。
「………」
 俺は何も反応できない。
 はるかは、これまでの人生で、一度も俺が見たことのない表情を見せていた。河島先輩の事故の時の表情とも、全然質が違う。
 憔悴しきったかのような横顔を、はるかは隠そうともしなかった。
 隠れてテニスを再開した時、定期入れの河島先輩の写真を見ていた時、俺の部屋で抱いた時…
 様々な表情がフラッシュバックする。そのどれもが同じ事を主張していた。
 「危険だ」。
 ざっ。
 俺は立ち上がり、はるかに背を向ける。
「はるか」
 返事はなかった。
「俺の家、来るか…?」
 そのまま、待つ。
 反応があるまで、何分、いや何時間かかろうとも待っているつもりだった。はるかはあの時、一晩待っていてくれたのだ。
 が、意外な事に、俺の背中に何かが力無くぶつかってくる感触は、俺の言葉が途切れると同時に生まれた。
「はるか…」
「冬弥…」
 呼びかけ交わす。はるかは、ぎゅっと俺の身体にしがみついてきた。
「私…」
「何も…言わないでおこう。お互いのために…」
 俺は、唇を噛む。
 …ぱん。
 はるかが、俺の背中を叩いた。
 ぱん。ぱん。ぱん。
 幾度も幾度も叩く。だが、その衝撃はあまりにも軽く、儚いものだった。
 逃げる事も出来ず、やめさせる事も出来ない。
 俺達は、どれほどの間そうやっていたのだろう?
 いつしかはるかの手は動かなくなり、俺を掴む力も弱いものになっていた。
 その事自体に気づくまで、しばらく時間がかかったと思う。
「…行こう。俺は今風邪引き中だ」
 俺はそう言って、一歩踏み出した。
 ざざっ。
 後ろを振り向くと、膝に手をついてうなだれているはるかの姿があった。
「…行くぞ」
「…うん」
 少し掠れ気味だったが、返事は返ってきた。
 地面に転がった缶紅茶は、放っておく事にする。そこまで、余裕がない。


 部屋にたどり着くまでの道を、これほど長く感じた事はなかった。
 公園から駅へ、駅から駅へ、駅から自宅へ。一時間。
 俺と目を合わせないはるか、でも手を握っていないと崩れ落ちてしまいそうなはるか。
 知り合いに合わなかったのが不幸中の幸いだ。
「…ごめん」
 マンションの入り口で、はるかが消え入るようにつぶやいた。
「いいから。さっさと部屋入ろう」
 エレベーターの中の密室が、また苦しかった。
 階のボタンの前に俺。後ろの壁に背中をつけて立つはるか。
 一時間一緒にいたのに、その後三十秒間一緒にいるというだけで、どうして辛さが際だってくるのか。
 それに答えを出す事が出来ないまま、エレベーターのドアは音もなく開く。
 俺ははるかがついてきている事を前提に、自分の部屋に歩みを進めた。
 かちゃ。
 がちゃっ。
 ドアを開けてから、振り向いてみる。
「…入れよ」
「…うん」
 表情からは、多少余裕を取り戻している事がうかがえる。
 それでも、公園で見せた、あの表情の残滓は拭いきれていない。
 全部、俺の責任だと言ってくれればまだ楽なのだ。
 俺の周りにはそれが出来ない人間ばかりいる。
 だが、俺自身もその台詞を吐く事は出来ない。そんな自明の事を吐露するのは、あまりに傲慢すぎる所為だろう。
 この後、俺はどうすべきなのか。
 ぱちぱちっ。
 とりあえず、俺が部屋に入って最初にやったのは電気を点けることだった。
 もう外には薄闇色が広がっている。カラートーンだけでも明るくしておかないと、やりきれない。
「…消して」
「え?」
「冬弥、電気、消して…」
 はるかの言動に俺は戸惑った。
 それって…
 いや。
 どうもそうではないらしい。
 いくらおかしくなってるとは言え、はるかはそんな事をさらっと言える人間じゃない。
「わかったよ」
 とりあえず、俺は従う事にした。
 ぱちっ。
 部屋がグラデーションする。不自由するほどの暗さではないのだが、お互いの顔が見えにくくなる程度の暗さはあった。
 ひょっとすると、顔を直接見合わせるのに抵抗があったのかもしれない。
 俺は、ゼラニウムの鉢の前に行く。
「ボール・ライトだけでも点けちゃだめか?」
「点けないで…」
「…そうか」
 やっぱり、顔が照らされるのが怖いんだろうか。
 熱い紅茶でも入れようかと思っていたが、暗い部屋の中で飲む気にもなれない。それにティーパックだ。考えようによっては冷たすぎる飲み物だった。
 俺はどこに位置すべきか少々迷ったが、ベッドに寝転がる事にした。
 はるかは、フローリングにぺたんと座る。
「冷たいだろ。風邪引くぞ」
「いい」
「椅子に座れよ」
「いい」
「頼むから、心配掛けないでくれよ」
「いい」
 子供みたいに答える。
 はるかを落ち着かせるには、どうすればいいのか…。
 しばし頭をひねる。
「なぁ、はるか…シャワー、浴びてきたらどうだ?」
「………」
 はるかは答えない。そりゃそうだろう。前この部屋に来た時は、風呂場で抱き合ったのだ。意識しない方がおかしい。
 だが、身体を温めた方が落ち着きやすくなるのは事実だろう。それに、一度離れすぎない程度に離れてみる事が、今の俺達に必要だという気もした。
「心配するな、のぞきやしねーよ」
 とりあえず、そんな台詞を投げてみることにする。
 想像通り、はるかは動かない。
 もう少し強い言葉を探そうとすると、
「そう…する…」
 静かなつぶやきが漏れた。
 意外と素直だ。もう少し手こずるかと思ったのだが。
 のろのろと身体を起こし、はるかは風呂場の方へと歩いていった。
 やがて、微かな衣擦れの音が聞こえてくる。
 がちゃっ。
 風呂場のドアを開ける音。すぐにシャワーの音が聞こえてくる。
 俺は起き上がった。
 まず、ベッドの下の収納ボックスからバスタオルを取り出す。出来るだけ毛並みのふっくらしたやつを選んだ。
 それを持って、脱衣所兼洗面所の方に歩いていく。
 サー…
 強いとも弱いとも言い難い、極めて無表情な水音が鳴り響いている。しかも、音の強弱が全然変わらない。恐らく、水流を身体に当てているだけなのだろう。
 バスタオルを白いカゴに放り込む。はるかの脱いだ服を覆い隠すように。
 それだけ済ますと、俺はまたベッドに戻った。
 一昨日の夜のように、天井を見上げる。ただ、今日の場合、そこにあるのは、一本のか細い糸だけだった。それは俺に迫ってくるのではない、逆だ。俺が掴もうとすると、するりするりと抜けていく、そんな糸だ。
 俺は、その糸を密室に閉じこめてしまったことになる。
 話さなければならないだろう、色々と。俺達が望もうと、望むまいと。27日は3日後まで迫っていた。
 英二さんからの電話が頭をよぎる。
 あの人も、相当勝手な人であるのは間違いない。音楽祭が終わった後、ほとんど休むヒマも無いほどに中国行きに向けてのスケジュールが動き出しているのだ。
 結局、音楽祭の前、由綺に全く会えなかった時期と同じ状態が続いた。「放っといてる」と言われても、少し一方的すぎる。緒方プロダクションのスケジュールを握っているのは、英二さんに他ならないはずなのだ。
 しかし…英二さんに対して腹を立てても、何も始まらないのは事実だった。俺と由綺の間で済ますべき事が、先延ばしにされてきたという事は認めざるを得ない。
 そして、英二さんはご丁寧にもセッティングしてくれたわけだ。27日を。
 また電話での英二さんの口調が頭をよぎる。あの時は落ち着きを失ってしまっていたが、よく考えると聞き手に徹したのは正しかったのだろうか。
 我ながら、小物さ加減に嫌気がさしてくる。
「…と」
 風呂場の水音が止んだ。
 本当に、身体に温水を当てただけ。シャワーを浴びた、と言ってよいものか。
 一方、俺は後悔していただけ。
 最初にはるかにかける一言すら、まだ思いついていなかった。


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