香里[過去]


 梅雨の訪れない土地にも、雨が降ることはある。
 静かすぎるその雨音は、仮に本州で降っていたとしても憂鬱な梅雨の空気を表現するのに十分な資格を持っていただろう。柔らかいホワイトノイズを抽出したような、幻想的なまでに儚い雨音だった。
「…っくしゅん」
 小さなくしゃみ。
「ん…」
 香里は自分の鼻の辺りに付いた細やかな水滴をぬぐい、幾度か目をしばたたかせた。睫(まつげ)にも、頬の産毛にもうっすらと水滴が浮いているのがわかる。
 そしてゆるやかに波打っている髪は香里を包み込んでいるが故に、かすかな雨にずっと晒されてしっとりとした水気を帯びていた。そのために髪の毛がボリュームダウンして見える。普段よりも香里が少し小さく見えるかもしれない。
 ジーンズや黒のシャツはぴったりと香里の身体に張り付いていた。元々タイトなデザインなのだ。それが水分によってより肌に密着する度合いを高める。それは重苦しく不快な感覚なはずだ。
 ぶるっ…と香里が身体を震わせた。身体が冷えてきているのだ。この地方では、6月の雨もまた冷たい。そこにいる人間を消耗させ、感傷の渦に叩き落とすのに十分なほどに。
「なんで、傘持っていないんだ」
 当然の疑問である。
「香里」
 それを継いだのはまた別の声だ。
 北川と祐一が、二人で香里の前に立っていた。
「風邪引くぞ」
「香里…」
 祐一が香里に歩み寄り、自分の傘を差し出す。
「ほっといてよ」
 何をも見ていない声だった。
「香里、今は、俺も困らせないで欲しい…余裕がない」
「………っくしゅん」
「な、香里?」
「俺と相沢でひとつ傘があれば十分だ」
「北川の言ってる通りだ、香里」
「……」
 …すっ
 香里が前を見ずに手だけ差し出した。祐一は、そこに開いたままの傘の柄を握らせる。香里はかじかむ指でそれをつかんだ。ふるえは続いているようだったが、傘を落とすような事はない。
「ひとりで、帰れるか?」
「だい…じょうぶ」
 香里の家はここからすぐだ。
「本当だな?」
「ほんとよ…」
「じゃあ、俺達行くから。まっすぐ帰れよ」
 祐一はそう言って、北川の傘に入る。北川は何か言いたそうな目で祐一の事を見たが、祐一も視線で返す。
「じゃあな、美坂」
 北川は祐一からも香里からも視線をそらして、それしか言わなかった。
 傘が動き出せば、祐一も自然とそれについていく形になる。歩き出した北川に並んで祐一も歩き出した。小さな公園から二人は出ていく。そのうちどちらも、出ていくときに香里を振り向く事はなかった。気にする素振りは見せていたのだが、はっきりと後ろを向くことはなく公園から出た。
 サー…
 道を水瀬家に向かって歩き出すと、今さらのように二人の耳へ雨音が響き始める。
「…相沢」
「なんだ」
「本当にひとりで帰して大丈夫なのか」
「送っていっても仕方ないだろう」
「………」
 その一言だけで、北川は黙ってしまった。
 水たまりが出来るほどではない雨だ。二人の足音は、どこかくぐもっていた。その足音をしばらく続けたあとで、
「…先に歩き出したのは、お前だろ」
 祐一がぽつんと言う。
「相沢が行くぞって言ったんじゃないか」
「言ってない」
「目で言ってたろ」
「そういうつもりじゃ…ない」
「………」
 北川は苦々しい表情になった。
「…そうか」
 しかし、最後にはうなずいてしまう。また沈黙が下りた。
 かなり経ってから、切り出したのはまた祐一だ。
「…うちにつきゃなんかあったかい飲み物飲めるだろ」
「美坂にも飲ませてやりたいな」
 北川は目の焦点を合わせずに言う。
「…北川」
「…悪い…」
 北川は目の焦点をぼやけたままに、そう言った。一方の祐一も、どこか目の焦点が合わなくなってくる。
 二人の歯切れの悪い会話は、そこで完全に機会を失った。
 外気はかなり寒い。梅雨寒、という言葉は当てはまらないが、生じている現象はそれと大差ないだろう。そして気温だけで比較するなら、いわゆる梅雨寒とは比較にならないほど低い。北川も祐一もセーターに身を包んで、身をすくめるようにして歩いている。
 冬の寒さに比べれば、何と言うことはない寒さだと言えるだろう。しかし、凛としたという形容が生まれるほどのこの地の冬の寒さに比べれば、今生じている寒さはあまりに陰鬱で暗い。
 祐一の頭には、冬の出来事が回想していた。北川はただ沈黙して歩みを進めるのみである。


「寒かったでしょう?」
「…ええ、やっぱり」
「俺はそうでもなかったですけど」
「北川は土地の人間だからだろ。まだ一冬しか越してない俺にとっては十分寒かった」
 祐一は秋子の入れた紅茶に砂糖を入れながら言う。
「そこまで差が出るとも思えないけどな…」
 そう言ってから、北川は何も入れないストレートの紅茶を口にした。
「ところで、二人でどこに行っていたんですか?」
 祐一は家を出るとき一人だったが、北川から電話が掛かってきた時に電話に出たのは秋子だった。それで秋子は察したのだろう。
「ええ…ちょっと」
「そこまで」
 祐一と北川は、曖昧な言葉を二人してつないだ。そしてお互いに顔を見合わせ、紅茶に口をつけて黙り込む。
「クッキーか何か、欲しいですか?」
「いえ、いいです。すぐ俺の部屋に行きますから」
「そうですか。じゃあ私も部屋に戻っていますね」
「はい」
 秋子は、いつものように何も感じさせない素振りでリビングから出ていった。
『………』
 沈黙が重なり合う。二人ともしきりに紅茶を飲みながら、相手の様子をうかがっていた。「何が言いたいんだよ」のやり取りが幾度も幾度も繰り返される。その度に「お前こそ」というフレーズが返される。実際に言葉を使っていないやり取りだけに、それは終わることなく延々と続いた。
 かちゃん。
 幸いなことに、紅茶が無くなるという区切りが存在していたために、その不毛なやり取りが無限に続くという事はなくなる。
 かちゃん。
 北川に続いて祐一もカップを置いた。
「部屋、行くか」
「ああ…このカップ、どうする?」
「台所に下げておくべきだろうな」
「わかった」
 二人は自分の飲んだカップをソーサーと一緒にそれぞれ持って、キッチンの方に歩いていく。綺麗に片付けられた台所の一角には、秋子がさっき紅茶を入れたポットが置いてあった。
 流し台の横にカップとソーサーを置いてから、二人は祐一の部屋へと向かう。
「どっちだ?」
「あ、こっちだ」
 言ってから、北川がこの家に来るのが初めてだったという事実を祐一は思い出す。祐一はリビングから出て左を指さした。
「二階だな」
「そうだ」
 短くやり取りしながら、二人は階段を上がっていく。自然と北川の方が前になって歩く形になっていた。本来なら祐一の方が先に歩いていくべきだったのだろうが、わざわざその位置関係をずらす気が祐一には起こらなかったのだ。
「っと…こっちは水瀬の部屋だな」
「ああ、みりゃわかるだろ」
「そうだな」
 いつものように『なゆきの部屋』のプレートが掛かっているドアだ。
「で、こっちのうちどっちだ?」
「手前の方だ」
「わかった」
 いちいち交わす情報のやり取りが、過剰すぎるような、それで適当なような、奇妙な感覚を祐一は味わっていた。そもそもこの部屋に人間を入れたことなど、ほとんどない。秋子と、名雪と、真琴と…それから。
 がちゃ…
「妙に片づいてるな」
「普段からこうだ」
 ドアを開ける音が、祐一を現在に呼び戻す。
「あんま面白いもんもないな」
 北川は部屋をざっと見回してから、ベッドの上に腰を下ろした。
「お前は何を期待していたんだ」
「相沢の事だから、もう少しひねりを入れてくるのかと思っていたぞ」
「知らないって」
 祐一は自分の机に向かい、椅子に腰掛ける。そこに北川がいるのが、割と当たり前のようにも見え、非常に不自然であるようにも思えた。気の置けない男友達が変に気になってしまうのも、この部屋に迎え入れた事のある人間が特別だったからだろう。
「水瀬は…どこにいるんだ?」
「さぁな」
 祐一の思考は、北川が何か言う度に逐一中断される。それが腹立たしくも思え、逆にありがたくも思えた。
 恐らく、意識が非常に分裂している…その程度の事は祐一自身でも理解できる。しかし、それを何とかする術は見つからなかった。さっき北川と香里に会いに行った時も、家に帰ってきたときも、この部屋に戻ってくるときも、足取りがふわふわと霞の上を歩いているような感触を感じるままだった。
 一応、他人とのやり取りは普通に出来ているように思えるのだが、客観的に見て本当にそうなのかは自信が持てなかった。軽い酩酊症状のようなものだ。
「美坂に会いに行ってるってことはないよな?」
「…たぶん。名雪はそこまで事態を把握していないんじゃないかと思う」
「そうか…」
 香里があのような状態になった原因を、祐一は完全に把握しているし、北川も祐一から聞いて知っている。突然北川が祐一に詰問するような口調で聞いてきたのだ。
 三日間学校を休んでいた香里に、北川が偶然外で会ったというのがその発端だったらしいが…。
「相沢」
「…なんだ」
「美坂はあのままで、本当に回復できるのか」
「わからない」
「俺達は、本当にあのまま美坂を帰して良かったのか?」
「…わからない…わかるはずないだろ」
 祐一が床を見ながら言う。北川は一瞬だけ間を置いた。
「俺にはお前達の気持ちがどういう状態なのかわからないけど、少なくとも美坂が助けを求めてるのは確かだと思うぞ」
 だが、言いにくそうな口調になりつつも北川は続けた。祐一はかすかに視線を上げて北川の事を見た。憂鬱に沈んだ中からの祐一の視線は、かなりの部分非難の色を帯びているように見える。
「っ…俺はそりゃ事態には関わってなかったわけだし、相沢にしてみりゃ部外者が口出すなって事なのかもしれないけどな、お前はともかく美坂ははっきりと見える形でダメージ受けているだろ」
 北川は、普段見せないようなやや焦り気味の口調でまくし立てた。そこには、どこかを突かれたら一気に崩壊してしまいそうな弱さが垣間見える。北川は下からにらみつけるような目で祐一の事を見た。対する祐一の視線は変わらない。ぼんやりとしつつも、非難や、場合によっては軽蔑を含んでいるのではないかと見える視線…
「なぁっ!相沢っ!」
 北川はしびれを切らしたように強く言葉を放つ。
「北川…」
「…なんだよ」
 半ば北川も予想していた事では会ったが、北川の気勢を削(そ)ぐようなゆるんだ口調で祐一は答える。
「香里にも言ったけど、俺も余裕がない…」
「っ………」
 北川は歯がみするような表情を見せる。しかし、部屋の中に沈黙が生まれるにつれて、徐々に握りしめたこぶしから力が失われていった。
「お前がそんなんで、どうすんだよっ…畜生」
 吐き捨てるように言う北川を、祐一は相変わらず覇気のない瞳で見ていた。むしろ、そのように何かに意志を燃やす北川が珍しい存在であるかのように。


 確かに、北川は誰とも軽口をたたき合うような関係を一番前面に出してやってきたかもしれない。事態の隅で気を利かせる役回りになる事すらあれ、自ら積極的に動くような事はこれまでの人生でも殆ど経験してこなかったと言えるだろう。
 コツン…
 スニーカーの先が転がっていた小石にぶつかった。水滴に濡れたその石は、やはり濡れたアスファルトの上を転がっていって、ついには排水溝の中に転がり落ちていく。
「くそっ…」
 一人つぶやきながら北川は天を仰いだ。霧雨の残り滓のようなものが降り落ちてくるくらいで、傘など要らない程度の強さになっていた。頬にかすめる微細な水滴の感触が、ますます焦燥の感を煽ってくる。北川はすぐに顔を下げて、手で乱暴に顔を拭(ぬぐ)った。
 今進行している事態について、北川は想像力の範疇でしか知らない。
 祐一のつき合っていた一年生の少女が病に倒れたこと、それが香里の妹であったこと、そして、香里が突然学校に来なくなった事と祐一の反応から察するに、恐らくは最期を迎えたのだろうという事…
 祐一が「余裕がない」と言ったのも、つまりはそういうことだ。
 そこに何故北川が関与しなくてはならないかと言えば、ひとつしか理由はないのだが。
 やはりその思考に至れば、背中から何かが這い上がってくるような感情を抱かずにいられない。嬉しさや楽しさにも似た、しかし今のような状況では憂いにしか感じられない感情。それは端的に恋愛感情だ。
 北川は自然と早足で歩き始めていた。
 自分が誠実なのかどうか、北川ははっきりとした解答を得ることができない。自分のやっている行動全てが独りよがりな恋愛を基準にしたエゴイズムだと言われたならば、北川はそれに堂々と反論することは出来ないだろう。たとえ、恋愛などという物が全てエゴイズムであるとしてもだ。そして、自分自身に罪悪感を感じずにはいられないだろう。
 そのような問いかけを放ってくるのは、北川の中の北川自身である。あるいは、北川の中に存在する「祐一」や「香里」である。
 激しい独り相撲の渦の中に取り込まれながら、北川は悶々としていた。この状況で普段のように飄々とした様子を維持すると言ってもムリだろう。だから、妙に熱血なペルソナが出現せざるを得ない。
 憂鬱の中に落ち込むことよりも、北川はそれを選んだのだ。どこかで崩壊するのではないかという危惧と常に戦いながら。
「北川君?」
 何をするにしても空虚な感情を抱かずにはいられなかった。救いがあるのは、恋愛という明確な対象を持ったものが中核に存在していたから、容易には人格が分裂してしまわないということだ。
「あの、北川君?北川君?」
 しかし、祐一や香里があのままの状態を続けるならば、何もできないままにいつしか…
「ねぇ、北川君っ!」
 どんどんっ。
「…あ?水瀬?」
「びっくりしたよ…話しかけても、全然返事しないんだもん」
 北川は後ろから背中を叩いた名雪に向かって、ゆっくりと振り向いた。
「どうしたの?考え事でもしていたの?」
「いや、俺はそんな事をする人間じゃないぞ」
「香里のこと?」
「………」
 北川は完全に言葉に窮する。名雪の言葉が何を指していたのかは確定できないが、間違っているとは言えない。
「わたしも、ちょうど香里のこと考えてたところなんだよ」
「…そっか」
 少なくとも、深い意味を持って言った言葉ではなかったようだ。北川は内心胸を撫で下ろす。
「今、帰るところ?」
「…そのつもりだけどな」
「ちょっとお話しても大丈夫?」
「ああ」
「そう」
 二人は道の脇に寄っていく。見た限りでは、周りには誰もいないようだった。小雨の降る平日の昼間に、わざわざ外に出てくる人間も少ないということなのだろう。もっとも、雨はもうほとんど止んでいると言ってもいい程になっていたが。
「…水瀬、ひょっとして香里に会ってきたのか?」
「ううん、どこにいるのかわからないし…うちまで行ってくるのも、おせっかいかなって思うから」
「そうだな…」
 自分と祐一がついさっき香里と会っていたという事実を、何となく言いだしにくくなる。お節介という単語が、それなりに痛かった。
「ただ、どこかで香里に会えるかもしれないなって思いながらずっと外を歩いていただけだよ」
「そうか」
「ずっと家の中にいるの、なんだか嫌な気分になってきちゃったから…それで」
 名雪は暗いという事も明るいという事もない、中立的な声で述べた。
「北川君はどうしたの?うち、こっちじゃないよね」
「あ…相沢とちょっと会っていた」
「祐一と?香里のことで?」
「そ、そうだな」
 取り立てて難しい想像ではなかったのだろうが、北川はまた心の中を読まれたような気分になってしまう。名雪が普段とぼけた様子だから、なおさらだ。
「祐一、なんて言ってた?」
「あ…まぁ、あいつも色々悩んでいるみたいだな」
「そう…だよね」
 適当に誤魔化した言葉だったが、名雪は納得した言葉を返した。
「水瀬は、あいつになんて聞いているんだ?」
 北川も聞き返す。名雪が事態をどれほど把握しているのかは、北川も知らない事だった。しかし、北川が祐一に詰め寄って聞き出したような情報を全て知っているとは考えにくい。
「何も聞いてないよ…」
「何も?」
「うん、なにも」
 名雪は何も含みがない口調で言った。
 祐一、北川、香里、その全てに裏を感じてしまう状況において、名雪の存在は間違いなく一服の清涼剤と言う事が出来るだろう。しかし、
「…ほんとにか?」
「うん、ほんとだよ」
「…そうか」
 北川は無意識の内に確認していた。そして、返ってきた純粋な答えは北川に自己嫌悪をもたらすのだ。
「…じゃあ、俺はそろそろ行くけど」
 いたたまれなくなって、北川はそう言ってしまった。
「うん」
「じゃあな」
「また今度、何かあったら聞かせてね」
「わかった」
 結局、ほとんど何も会話しないままに北川と名雪は別れて歩き出す事になる。
「じゃあね」
 北川の態度に対して何をも言及しない名雪の姿が、うらやましかった。そして、自分とのコントラストが鮮やか過ぎて、ひどい劣等感が生まれた。
 終わりのない悩みの渦と孤独に闘いながら、北川は家までの道を打ちひしがれた様子で歩いていった。


「ただいま」
「お」
「おかえりなさい」
「あ、お母さんも帰ってきていたんだ…」
 名雪はソファーに向かいながら、秋子を見る。
「寒かったでしょう?」
「そんなに寒くないよ」
「そう。コーヒーが入っているけど、どうするの?」
「欲しいよ」
「わかったわ」
 秋子がキッチンの方に消えていくのを見送りながら、名雪は祐一の横に座った。
「どこ行ってたんだ?」
「祐一は?」
「俺は…散歩していただけだ」
 やや冷めかかったコーヒーのマグに目を落としながら、祐一は言う。
「私も、そんな感じかな」
「そっか」
「せっかく普通の日にお休みなのに、ずっと家にいたら勿体ないもんね」
「の割に早く帰ってきたな」
「祐一の方がもっと早かったでしょ」
「俺は寒かったんだ」
「冬に比べれば全然寒くないよ」
「着ているものが薄いぶん、寒いんだよ」
「だったらコート着てけばいいのに」
「そしたらただのアホだろ」
「名雪?」
「あ、お母さんありがとう」
 湯気の立つマグカップを名雪が受け取る。ふぅっと吹いて軽く冷ましながら、名雪は小さく一口それを飲んだ。
「あったかいね」
「そりゃそうだろ」
「外から帰ってきた時に飲むコーヒーは、いつもの倍は美味しいよ」
「あったかいイチゴミルクの方がいいんじゃないのか」
「あったかかったら困るよ…」
「贅沢だな」
「イチゴは冷たくしないと美味しくないもん」
「ジャムは一度火を通しているぞ」
「もう一度冷ませばおっけーなんだよ」
「じゃあ一度沸騰させたイチゴミルクをだな」
「なんで沸騰させなきゃいけないのかわからないよ…」
 テレビに映っている他愛のないワイドショーと同レベルの会話だった。それを延々と続けて、二人ともコーヒーをお代わりするほどに長くいて、ようやくそれぞれの部屋に帰っていく。
 かちゃ…
 祐一は自分のドアを開けて、さっきと何も様子が変わっていない部屋の中に戻った。
「はぁ」
 コーヒーの香りに満ちた吐息が、薄ら寒く感じられる。祐一は暖房のスイッチを入れてからベッドに座り掛けた。
 身体が空虚に感じられるのは、いつものことだ。身体に力を入れようとしても入らない、歩いているだけで精気が少しずつ取られていくような感覚。他人と一緒にいる時にはある程度気分がまぎれるが、一時的なものだ。独りになった瞬間、どっと波のように憂鬱な感情が押し寄せてくる。
 確証はない…
 祐一は、香里がここ数日学校にも来ていないこと、あの公園で見せていた沈み込んだ様子が、栞の死によるものだという確証はつかんでいない。それを確かめるには、他ならぬ香里に聞くしかないからだ。
 だからといって、別の理由を探し出そうとする試みは、あまりにも空白で苦痛だった。それでも定期的に、発作のようにその試みが動き出してしまうのだ。そして苦しむ。やめようと思っていてもコントロールできない。
 余裕がない、というのは嘘ではなかった。
 名雪との会話に垣間の安らぎを見出しているのに気づきつつも、それをやらないでいるというわけにはいかない。やっている事はいつも通りなのだが、終わってみれば安易な逃避に思えてきて仕方がなくなるのだ。
 ばたん…
 祐一は腰掛けた体勢からそのまま身体を倒した。
 名雪の態度は、いつもとそう変わっているようには見えない。名雪は栞に一回は会っているが、栞の病気の事は知らないはずだ。ただ、状況からだけで判断出来ている可能性は否定できない。
 もし、名雪が気づいているのに普段通りの態度で祐一に接しているのだとすれば、それは強さだ。
 俺は…
 天井に香里と栞と名雪の顔が浮かんで消えた。


 かくして、いくつかの憂鬱が数日間時を過ごすことになる。


「……」
「…………」
「あ、香里、おはよう」
「…おはよう」
 教室に入ってきた3人のうち、2人は硬直し、1人は微笑みながらあいさつをする。
「香里の休んでいた時のぶんのプリント、取っておいたからね」
「ありがとう」
「…おい」
 北川が肘で祐一をつつく。
「……ああ」
 教室の入り口に立ったまま、男二人は小声で会話する。
「ホームルームで配られるプリントはあんまり多くなかったんだけど、数学でいっぱいプリント配られたから大変だったよ」
 名雪は鞄からクリアファイルを取り出して、そこからプリントの束を香里に渡した。
「感謝するわ」
「ホームルームでもっと配られていたら、持ってくるだけで大変だったかも…」
「4日間か?」
「そうだな」
「意外と…」
 北川は小声で言ったまま、言葉に詰まる。
「意外と、なんなんだよ」
「なんでもない」
「お前な」
「違う。違うんだって」
「二人とも、何やってるの?」
『いや、別に』
 名雪の声に、完全に二人の声がかぶる。無論、近くにいた人間の失笑を買った。
「内緒話なんかしてるからだよ」
「北川が始めたんだ」
「相沢だって乗ってきただろ」
「相槌打ってただけだ」
「責任転嫁するなっ」
「何話してたの?」
 祐一と北川は顔を見合わせる。さっき声をハモらせた失敗の教訓だろうが、かえって間抜けな雰囲気が漂った。
「変な祐一と北川君」
「こいつはいつもだ」
「相沢に言われたくはないぞ…」
 香里を完全に隅に追いやった会話だったが、きちんと成立している。祐一と北川の不自然な反応も、どこか自然に流されていった。
「来たわよ」
 そこに、香里自身の言葉が重なる。
「おっと」
「あ、ほんとだ」
 教室の前の扉から、担任が入ってくるところだった。
 四人は相変わらず近い席でグループを作っていたため、ほとんど動かずに各々の席につく。香里が教室の一番左後ろに当たる席、横に名雪、前に北川、斜め前に祐一という並び方だった。
「今日は久しぶりに香里が来たんだし、みんなで学食行こうよ」
「そうだな」
「俺も賛成しとく」
「ね、香里?」
「…そうね」
 香里はやや引き気味のトーンを維持しつつも、名雪の方を向いて普通の受け答えをした。
 それから、窓の外に目をみやる。雨が降りそうで降らない曇り空に、香里は視線を向けた。
「あー、静かにしろ。進路に関する調査だがな…」
 香里が来ているという事に気づいているのか気づいていないのか、担任が話し始めた。名雪は前を向いて担任の話に聞き入り、北川と祐一はお互い視線をちらちら交わし合っている状況。
 変なアイ・コンタクトが成立しているようにすら見えた。
 そして…
 がたたっ。
 担任が出ていった瞬間、北川と祐一は同時に席を立つ。
「??どうしたの?」
「トイレだ」
「俺も」
「佐野先生来るの遅くないんだから、速くしたほうがいいよ」
「わかってる」
 祐一は名雪に答えた。それから、あちこちでおしゃべりが再開された教室の中を北川と祐一が縫っていく。素早く教室のドアまでたどりつくと、廊下に抜け出た。
「…なんだか…どうする」
「どうするって言われてもな」
「4日前と雰囲気全然違うよな」
「そりゃ、同じだったらガッコにゃ来ないだろ」
「それはそうだ。で、どうする」
「俺に聞いて分かるような話じゃない」
「また余裕が無いとか言う気かよ」
「…事実だからな」
「なんで美坂が復活しているのに、相沢が駄目なんだよ」
「だーっ、なんで香里が復活しているって断言できるんだ」
「そりゃ…」
 北川は言葉に詰まる。
「…はぁ」
 だが、祐一はすぐ北川に向かってため息をついた。
「…なんだよ」
「…なんでもない」
 『だーっ』というかけ声に、妙な嫌悪感を覚えたのだ。言っている内容が深刻なはずなのに、結局そういう軽いテンションに自然となってしまう事に、自信を無くしてしまったのだ。
 自分が、真剣に悩んでいるという事実に。
「あ…佐野だな」
 北川が廊下の向こうを見やりながら言う。
「入るか」
「なんも話が進んでないぞ」
「お互い、勢いで出てきただけだろ?」
「そりゃ…否定はしないけどな…」
 未だ納得していない顔の北川を置いて、祐一は先に教室の中に戻った。


 その日の授業は、ひたすらに祐一と北川の視線の牽制し合いである。名雪は不思議そうな顔でそれを見ていて、香里はずっと空の向こうを見ていた。
「なにかけんかしたの?」
「あ?」
「祐一と北川君、何かケンカでもしたの?仲良くしないとだめだよ」
「してないって。今日の朝だって普通だったろ」
「そうだけど…ずーっと二人してにらみ合ってるんだもん」
「にらみ合ってたわけじゃないだろ」
「ほとんどそんな感じだったよ」
「違うって…で、どうするんだ?」
「あ、そうそう、みんなで学食だよ。香里も行こう」
「………わかったわ」
 たっぷり1秒の沈黙を挟んだ返答だったが、名雪は嬉しそうに笑みながら香里の手を握って椅子から立たせる。
「私、Aランチだよ」
「もはや説明するまでもない事だな…」
「食べるぞ食べるぞって、ずっと思っているから余計おいしくなるんだよ」
「平和ね」
『………』
 香里の入れた短い突っ込みに、北川と祐一が思わず沈黙した。
「普段通りの幸せが一番いいんだよ」
「あなたらしいわ」
 しばしの硬直を経て、ようやく北川と祐一は名雪と香里の後について歩き始めた。相変わらず視線でやり合いながら、完全に名雪と香里の話から外れて男二人は歩いていく。
 声のトーンからだけでも、名雪は楽しそうに話しているのがわかったし、香里もそれほどつっけんどんな返事を返しているわけではないようだった。そこに北川と祐一が入っていく隙間は全くなく、午前中ずっとやっていたのと同じ不毛な無言の争いが続く。
「ねぇ、席取りと買いに行くのとどっちがいい?」
「え?そうだな、俺達は席を取ってる」
「あ…ああ、そうだな、俺Bランチ」
「俺も」
「二人とも、Aランチにしようよ」
「あー、唐揚げついてたし、やっぱBランチ」
「そうだな、俺も唐揚げにしとくわ」
「そう。じゃあ、ちゃんと4人分取っておいてね」
「了解」
「よろしく」
 どことなく引け目のようなものを感じながら、祐一と北川は四人分の席を確保しに歩き出した。
「なぁ」
「なんだよ」
「俺達、一体何やってるんだ?」
 北川は情けない声で言う。
「知らないって」
「絶対にどこかずれているのは間違いないと思うんだが」
「二重に強調しないでもいいだろ…」
「それぐらい違うと思うんだが…」
「って言ってもなぁ………」
 しかし祐一から反論の言葉は出てこない。
「独り相撲とか…」
 北川が続けた。
「二人だろ」
「実質的に一人なのとなんにも変わってないぞ」
「………おっ、席発見だ」
「逸らすなよ…」
 言いつつも、とりあえず北川も祐一と一緒に長テーブルの中に入っていって席を確保する。そして対面に座って、二人ともどっかりと肘をテーブルの上についた。
「何をすればいいんだろうな」
「それがわかれば苦労はしない」
「それとも、何もしなくてもいいのか?」
「それがわかれば苦労はしない…」
 祐一は疲れ切った口調で答えた。
『はぁ…』
 そして、ふたつのため息が重なる。馬鹿な視線のやり合いだけで、二人は十分消耗していたのだ。
 悩みの内容は、二者二様である。しかし、それが有効に働いていないという点で綺麗に一致していた。それが香里を軸にしたものであるという点でも同じだ。
「俺達何やっているんだ?」
「わからん」
 問いかけと答え。そうしていると、二人の前に本当に深刻な事態が横たわっているのかという事すら疑わしくなってきてしまう。学食にどんどん入ってくる生徒達の喧噪は極めて呑気だったし、室温も中途半端な熱さで締まりがなかった。
 その頭が溶けそうな状況で二人がぐったりしている所に、名雪と香里が帰ってくる。
「お待たせ。重かったよ〜」
「ああ…さんきゅ」
「390円な…」
 北川と祐一はそれぞれトレイの上に乗った唐揚げの定食を受け取ってから、財布の小銭を取り出して名雪に渡す。手の平にいっぱいになった小銭を名雪が財布にしまっている間に、香里は祐一の隣に回って座った。
「ひとりだけ蕎麦かよ」
 香里のトレイの上には、油揚げの載せられた蕎麦があった。汁は醤油味である。
「別にいいでしょ」
「無理なダイエットとかでおそばにしているんじゃないんだったら、全然大丈夫だよ」
「うーむ…」
 祐一はもう一度きつねそばを見つめてから、箸を取って自分の唐揚げに取りかかった。
 北川はなお一層香里のトレイの上を見つめていたが、ちらと香里が視線をやった瞬間、慌てて味噌汁の椀を取ってすすり始める。
「………」
 香里は軽く肩をすくめた…ように男二人には見えた。それから、何事もなかったように蕎麦をすすり始める。
「今日のAランチはおさかなのフライだよ」
 そして名雪の会話はあくまでいつも通りだった。


「なぁ」
「なんだ」
「誤魔化さずに答えてくれ。美坂も水瀬も、どうなってるんだ?それとも、俺達の方がなにかおかしいのか?」
 その日の帰り道である。名雪も香里も、授業が終わるなり部活に行ってしまった。引退まであと2ヶ月もないらしいから、それは当然であるかもしれない。
「………俺にも、事態が全然把握できていないんだ」
「それはわかる」
 北川と祐一は、何度も繰り返してきた応答をまた始めていた。
「確認したいんだが。お前の転校してきたしばらく後に美坂がずっとふさぎ込んでいて、それが段々よくなってきたと思ったら突然4日間続けて休んだ。それは美坂の妹さんの問題という事で間違いないんだな?」
「…間違いない」
 祐一自身が経験した、たった一ヶ月の間の出会いと別れだ。何が起ころうとも、無かったなどと言うことはあり得ない。今でも鮮明に、あの日々の間に栞と経験したこと、話したことを思い出すことができる。
 そろそろ、意識の表面からは薄れさせていかなければならないと理性が告げても、そうやすやすと可能になる事ではなかった。別れ間際に雪の上に横たえた栞の姿は、まるで昨日の事のように祐一の記憶へと刻みこまれている。
「それで、水瀬は事態を全然把握していないんだとしよう。でも、美坂は妹さんがああなったっていうのに、たった4日休んだだけで、なんで平静でいられるんだ?俺には理解できない」
「……俺にも、理解できない…」
「そう言うと思ったが…もっと真剣に考えてくれ。このままじゃ俺達は堂々巡りだ」
 北川の瞳に真摯な色が宿っていた。
「……俺は」
「ああ」
「俺は、少なくとも、栞がこの世からいなくなったっていう証拠を突きつけられたら、正気ではいられないと思う」
「そうか」
「だから、今回の件でも、ほとんど地面に足が着かないような感覚になってる。覚えていないけど、夜も嫌な夢ばっかり見て仕方ない。栞が絶対まだこの世にいるんだっていう感覚と、もう手の届かない世界に行っちゃったんだっていう感覚の、どっちが正しいのか全然わからない状態だ」
 祐一は北川の事を見ずに続けていく。
「ただ、俺は恋人として限られた時間栞の横にいただけだし、香里がどう感じているのかはわからない。ひょっとすると、栞のそばにずっといた香里は、俺よりもずっと強くなっていたのかもしれない」
「見た目よりは…美坂も、強い人間じゃないとは思うんだがな」
「あ?」
 祐一は顔を上げて北川の事を見る。
「いや、なんでもない。他に何かあるか?」
「…香里は、ずっと妹なんていないって言い張っていた」
「妹が…いない?」
「一人っ子だって言ってたんだ。栞が、元からいない妹だったって言ってたんだ」
「なるほどな…」
「俺はそれが間違いだって思っていた。実際、香里もそう言い張っていくことに耐えきれなくなった時もあったみたいだしな。でも、俺が栞と別れた後、香里がどう思っていたのかはわかんないし…」
 祐一はまた北川から目をそらす。
「こうなった時にああ振る舞えるって事は、香里の判断も正しかったのかもしれない」
「…美坂の態度が普通に見えるのは、前から妹さんがいないって思いこんでいたからだって言うのか」
「可能性だけどな…今日ずっと香里を見ていたら、段々そうなんじゃないかって思えてきた」
「いない妹さんがいなくなっても、一緒ってことなのか…」
「わからない。俺にはそれ以上はわからない」
 ざっ、と音を立てて祐一は左の路地に足を向けた。
「俺は今日はここで曲がる。またな」
「…ああ」
「それじゃ」
 祐一が歩き出す。
「相沢」
「なんだ?」
「落ち込むなとは言えないけどな、それってあんまりお前らしくないぞ」
「…なんだよそれ」
「相沢は転校してきた時みたいに、もっと馬鹿な奴の方が似合ってる」
「北川に言われちゃおしまいだな…」
「ひどい言いようだな、そりゃ」
「だったら、変に真剣なお前も舞踏会にゴミ袋持ち込んだ時くらいに似合ってないぞ」
「ばっ…あれは…あれは、若気の至りってやつだ」
「…なんだ、やっぱりあの時は恥かいて帰ってきたのか」
 いつの間にか、祐一は北川の方に向き直っていた。
「知るかっ!さっさと帰れ」
「ああ。明日な」
「ああ」
 ふと、二人の目が合った。
 …バチン!
 どちらからともなく、ハイタッチが成立する。
「じゃ」
「おう」
 そして、今度こそ二人は別れて家路についた。


 カチャっ。ガタン…
 自転車のカギを外してスタンドを上げ、サドルにまたがる。カゴにはコンビニの袋が入れられていた。缶ジュースにスナック菓子、雑誌。いかにもな買い物だ。時計が23時を指しているのも、それらしさを際だたせている。夜の高校生の買い出しとして、どこから見ても標準的と言わんばかりの北川である。
 その買い出しにわざわざ自転車を使わなければならず、しかし24時間営業のコンビニがあるというのが、いかにも地方都市的かもしれない。
 カタ……ギイッ!
 ゆっくりとペダルをこぎ始めた北川は、次の瞬間思い切りブレーキをかけていた。勢い余って転びそうになりながらも、なんとか両足をついて自転車を止める。
「美坂…」
 前から歩いてきたのは香里の姿だった。暗さのせいで、近くに来るまで香里だと気づかなかったのだ。北川はサドルにまたがったまま、呆然として香里の姿を見つめる。
「…北川君」
 香里は自転車のやや斜め前の位置で立ち止まり、北川の事を見つめた。
「…こんな時間に、どうしたんだ?」
「コンビニに買い物に来るくらい、こんな時間でも珍しい事じゃないと思うわ」
「あ…あ、そりゃそうだよな」
 北川は2,3度うなずきながら言う。どうもわざとらしくなっているような気がして、北川は軽く咳払いした。
「じゃあ…私は買ってくるわね」
「ああ…」
 香里は北川の様子には全く興味を持った素振りもなく、道を歩いてコンビニの中に入っていく。
 北川はひそかにその様子を目で追いながら、どうすべきかを考えていた。
 香里の様子を見る限りでは、北川と一緒に話をしようだとか途中まで歩こうなどといった感じには見えない。友人関係として考えればその程度の事に許可を求める必要はないのだろうが、最近の香里を取り巻く謎の多い状況を考えると、そうそう簡単に二人きりになろうと思えるわけではなかった。
 しかし、香里が「じゃあ」と言って店の中に入っていった事が、北川の頭の中に引っかかっていた。と言うことは、「待っていて」という意思を含んでいるのだろうか。それとも、ただの読み過ぎか。別れのあいさつとして言っただけなのか。
 ペダルをこぎ出しそうになり、それを押しとどめ、としている間に、どうしても帰ってしまう事ができなくなってしまった。
 これまでは少なくとも仲の良いクラスメイトとしてやってきたのだから、一緒に話したり歩いたりしても不自然ではない。少なくとも周りから見ればそうだし、香里も無理矢理突き放すような事はしないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、北川は固唾を飲んで香里が出てくるのを待った。
「………」
 それは意外と長いものになった。雑誌でも読んでいるのかもしれない、と思いつつも段々北川は焦ってくる。こんな不安な状態は数分も経験すれば十分だった。しかし10分経ち、15分経っても香里は出てこない。ひょっとして、いつの間にか店の中から出ていってしまったのではないかと思ったほどだ。
 もちろん、出入り口は一個しかないコンビニだし、北川はそこを食い入るようにしてずっと見ていた。見逃すことなどあり得ない。ただし、店の中にまで入っていって確かめる勇気も無かった。
「…りがとうございました」
 だが20分ほど経ったとき、チャイムのメロディと共に香里が店から出てくる。手には北川と同じようなナイロンの袋があった。
「随分長い買い物していたんだな」
「待っててと言った覚えは無かったわ」
「う…そ、そりゃそうだけど、この状態だったら待っててくれって言っているのかもなって思うだろ」
「だったらお店の中に入って聞きにくればいいじゃない」
「ま、まあ、でもなんかこんなにかかるって思わなかったから…だから、その、あのだ」
「別にいいわよ」
 香里はゆるっとした動作で北川の事を見た。
「一緒に帰ろうかって言うんでしょ?」
「んーと、み、美坂がこれからまた別のとこに買い物行くって言うんだったら方向違うけどな、そうじゃないんだったら」
 名前を呼ぶときにどもってしまった事で、北川は激しく焦る。
「この辺で、この時間にやってるのはここのコンビニくらいでしょ」
「そ…それもそうか」
「私は普通に帰るわ。北川君は」
「お、俺も帰る」
 北川は自転車から降りて、押して歩く体勢になった。香里がその横にゆっくりと歩いてくる。北川は車道の端を歩き、香里はやや高くなった歩道を歩くという形になったから、香里の目の方がほんの少し上に来るほどだった。
 チャリチャリ…と、チェーンが立てる規則的な音だけが闇の中にしばし響いていく。北川は何か話題を探そうと必死になっていたが、香里は見事なまでに動じていない。時折北川の方を見ながら、極めて落ち着いた様子で歩みを進めている。
「…なぁ、何買ったんだ?」
 その話題を出すだけで、かなり掛かった。
「いろいろよ」
「例えば?」
「ノートとか、男の子には関係ないものとかよ」
「あ…俺は、ジュースとか菓子とか、雑誌とかだな」
 対応の難しい話題を振られた。北川は自分の話に移すことでしのごうとしたが、極めて発展性が乏しい事に気づく。香里がどんな漫画を読んでいるのかなど知らないし、そもそも漫画など読むのか分からない。ジュースや菓子で話題を作ろうとしても、大したネタになるはずもなかった。
 コーラの銘柄の差について話題を作ろうと一瞬考えて、すぐ挫折する。菓子でも似たような事をやって、意味のない事に気づく。
「…あ、そうだ。試験、今度もノート頼むわ」
「これまでと違ってちゃんと自分で勉強しないと、浪人生活が待っているわよ」
 香里は涼しい目で厳しい事を言う。
「で、でも、美坂と俺の目指すとこはレベルが違うからな」
「どんなにレベルが違っても、普段からの努力が重要なことには変わりないわ」
「そうかも…しれないけどな。とりあえず赤点取ったらやばいわけだし。相沢も欲しいんじゃないかって思う」
「相沢君は名雪にノートを見せてもらうつもりでしょ」
「でも、水瀬も美坂に結構ノート見せてもらったりしてるだろ」
「あれは、ちょっとした確認とかよ」
「確かに、水瀬もそんなに成績悪くないけどな…の割に相沢の成績はいまいちだったみたいだけどなぁ」
「だったら、私のノートを見せて上げた時の北川君の成績ももっと上がってほしいものね」
「そ、それはっ…俺も、今度の期末くらいからはいい加減勉強しとくようにするつもりだし、大丈夫だ」
「本当かしら…」
「本当だって。今美坂が言った通り、受験ってのが段々迫ってくれば嫌でも勉強しなくちゃいけなくなるし」
「まぁ、勉強しようってのは悪いことじゃないわね」
「ああ、だからお願いするわ」
 ぽん、と香里の目の前で手を合わせる。そしてすぐにハンドルに手を戻す。
「仕方ないわね」
 香里は普段通りの表情で言う。
 結構、昔の香里の雰囲気と変わっていない…と北川は思った。それは北川がまだ恋心を抱いていなかった時の香里だが、一度生まれた恋心は時間すらも遡っていくのだ。学校での様子を見ていたから、そこまでつっけんどんな態度をされる事はないだろうと踏んでいたが、実際にそうなってみるとこの上ない安堵感が生まれてくる。
 もちろん、あの雨の日の公園で見たときほどでは無いとはいえ、あまり元気がない事は見て取れた。こうやって脳天気な会話をする事が果たして香里にとって良いことなのか悪いことなのかは判断できない。
 だが、突然その話題を持ち出してしまいだけの勇気は、北川にはなかった。それについての確定的な情報も少なすぎるし、そんな話題をできるほどに自分が香里にとって近しい存在であるとは思っていなかったのだ。数ヶ月前までは、比較的仲が良いクラスメイトというだけだったのだから。しかも、仲良くなった最大の理由はたまたま香里と名雪の近くの席になったというひとつの偶然だし、より仲良くなったのは祐一が転校してきて、4人でよく話したり遊んだりするようになってからだ。
「ま、美坂は勉強なんてしなくても成績トップなんだろうし、受験も楽々通れるだろうけどな」
「そんなわけないでしょ。勉強しなきゃ成績は落ちるだけよ」
「そうなのか?出来ない人間にとってはとてもそう見えないけどな」
「実際、最近は勉強ほとんどしてないから、授業がちょっとわからなかったし…きちんと取り戻さないと、テストも弱点出来ちゃうわね」
「大変だな…弱点だらけの中から穴埋めしていくみたいな俺達とはえらい違いだ」
「そんなに違うわけじゃないわよ」
「ま…きちんと、やってなかったぶんの勉強して、取り戻してくれよ…」
 北川は真正面を見ながら、少しだけ言葉に湿った色を持たせた。やっていなかったぶんの勉強とは、すなわち香里が学校を休んでいた期間に他ならないだろう。そこに遠回しとは言え言及するのは、やや度胸がいる事でもあった。
 だから、やや声のトーンを落として、触れるべきではない話題だと理解している事をさりげなくアピールする。そういう配慮を持っているという事を、ひっそりと香里に見せる。
「…ねぇ」
「ん?」
 香里が急に立ち止まった。
「少し、話していく?」
「…え?」
「時間があるんだったら、公園で少し話しない?」
「…あ…あ、俺は、別にいいけど…」
「聞きたいこと、あるんでしょ?いろいろと」
 香里は北川の目を見つめながら言った。その瞳はひどく悲しそうな諦めを湛えているように見えて、北川をたじろがせる。
「べ、別にそんな…」
 北川は目をそらしながらしどろもどろになった。
「………」
 そんな北川を、香里は責める様子もなく、悲しむ様子もなく、ただいつも通りの目で見ていた。しかし、香里が北川を見つめるという普段ない事態に、北川はただうろたえる。首を縦に振りたくても、どう言いながらそうすればいいのかわからない。かと言って無言で首を振るというのも上手くできそうにない。
「じゃあ、行きましょ」
「え…あ」
 一瞬、用事がないなら帰ろうという意味なのかと思って北川は焦るが、香里が歩いていったのは公園の中の方だった。
「…ああ」
 だいぶ遅れてから返事をして、北川は香里の後ろをついていく。


「…随分、涼しいわね」
「ちょっと寒いくらいかもな」
 規模の割にはかなりの樹木が植えられている公園である。その中にある、ゆったりとしたサイズのベンチに二人は座った。
 かすかに風が吹いてきて、二人の髪が揺れる。木々の中にいるというだけで、風の動きや温度が敏感に感じられるようだった。その雰囲気の中で、北川もだいぶ落ち着きを見せてきている。
「ふぅ…」
 青白く光る公園の灯りを見つめながら、北川は息を漏らした。どことなく夢の中のようでいて、しかし頬を撫でる風の冷たさが静かに現実味を伝えてくる。
「それで、何を聞きたいの?」
「…うーん…」
 早々と香里が話題を振ってくる。北川が聞きたいと明言していたわけではないのだが、この状況下では自分が香里に聞きたいことがあると言ったに等しい。
 いきなり取り乱す事はなかったものの、北川はかなり悩んだ。途中から、思考がぐるぐる渦を巻いて、実質的に思考していないのと同じような状態になるほど悩んだ。
「悩むわね…」
「…ああ」
 ぽつりと香里が言った一言で、北川は思考の渦から解放された。そうすると、自然にひとつの質問の形が頭に浮かび上がってくる。
「…美坂は、相沢が元気ない原因ってなんだと思う?」
 質問はそれだった。自分の知っている内容を聞くという、非常に不誠実な質問。だが、うまくいけば香里からきちんと情報を聞き出せる質問であるし、自分がある程度把握している内容だけに、香里の返答に身構える必要もあまりない。
 多少後ろめたいものを感じつつも、悪くない質問ができたと北川はほっとするものを覚えていた。
「…北川君は、相沢君から聞いていないの?」
 だが香里はそう切り返してきた。振り出しに戻ってしまう。
「う…ん、あいつも曖昧にしか言わないんだよな」
 嘘を重ねる事になってしまった。
「曖昧にって言うと、どういう事を言っているの?」
「う…ま、まあ、同じ質問を何度もして、はぐらかされてきたわけだから、正確には覚えていないけどな…」
 北川は必死に考える。
「美坂の事に関係してるみたいなことは…いつも言っていたと思う」
「…そう」
 かなりいい加減な言い方だったが、それについて香里が問うことはなかった。北川は内心胸を撫で下ろしながら、香里の返答を待つ。
「じゃあ…」
 やや良くない予感がした。
「北川君は、私や相沢君について、どういう風に思っているの?」
「ど、どういう風にって」
「想像で構わないわ」
 北川は一瞬、香里の事を「どう思っている」という言葉に意識を奪われてしまったが、そういう事をしている場合ではない事に気づく。
 香里のこと…
 北川が栞の事を聞いたのは、祐一からだ。しかし祐一からあまり事情を聞いていない事になってしまっているのだから、栞の事について話すわけにはいかない。確かに祐一が越してきたばかりの頃、中庭で佇んでいた栞の事を北川も見かけていたが、それが栞だったと分かったのは祐一の説明があってからだ。当時は栞の存在など知るはずもなかった。
 そうなると、栞の事を説明に加えるわけにはいかない。かと言って、栞の事を説明に入れなくてはほとんど実質的な説明ができない事になってしまう。
「俺は…」
 何とか北川は声を絞り出した。
「相沢も美坂も、自分のことで何か問題を抱えているというより…別の人間のことで悩んでいるんじゃないかっていう風に見ているんだが」
 一般論を示した。
「ただの想像、だけどな…」
「想像で構わないと言ったわ」
「そうだな」
 北川は座っている自分の両脚に手を当てて、膝の所まで滑らせる。
「で、どうなんだ?」
「そうね」
 香里は北川の事を見据えた。北川は少々たじろぎながらも、真っ向からその目を見つめ直す。
「栞の話は、知っているの?」
「な…」
 北川は思わず声を漏らしてしまった。
「あ、あ…それ…」
 それ、誰だ?と聞こうとしたが、できなかった。栞という言葉に反応してしまった時点で、言い逃れは出来ない。
「知っているのね」
「う…それはな…」
 昔祐一に聞いただけ、などという説明も頭をよぎったが、それで栞の病気の事を全く知らないというのは説得力がない。かと言って、栞の事を知っていると認めては、さっき曖昧な言い方で一般論を示した事とつじつまが合わなくなってしまう。
「相沢君から聞いた?」
「………」
 全く同じ表情で見つめてくる香里に、ついに北川は陥落した。首を小さく縦に振る。
「そう」
「で、でもな…それは…聞いていいのかって…いや…」
 北川の声が段々小さくなっていく。
「なんでもない」
「………」
 香里はゆっくりと北川から目をそらして、水銀灯に視線を移す。
 場の空気が、段々と沈黙に移行していった。北川は何とかして取り繕わなくてはならないと焦るが、有効な手だては全く見えてこない。香里が怒りや悲しみを見せたならばまだやりようもあったかもしれないが、香里は全くの無反応なのだ。ただ、この場に北川が存在していないかのように振る舞っているとも見える。
「…どうして、そういうのを期待するのかしらね」
「…え」
 突然、香里が口を開いた。視線は未だに水銀灯に合わせられたままである。
「相沢君は、栞がどうなったと思っているの?」
「ん、ん…どっちか分からないって言っていたな…」
「どっちか…つまり、栞が生きているか、生きていないかということね」
「う…」
 思い切り核心に迫られて、北川は言葉を失った。しかし、最後にはうなずかざるを得ない。
「どちらかと言えば、どっちなのかしら?」
「そ、それは…俺は相沢じゃないから、わからないけど…」
 急に展開する会話に、北川は十分な判断の時間を持つことができなかった。
「いないんじゃないか、って思っているんじゃ…ないか…たぶん」
 言っていいのか悪いのかわからないままに、その言葉を発してしまう。
「そうでしょうね、相沢君と北川君の様子からして」
「…俺は、状況を聞いてしか把握していないから、相沢の様子から思っただけではあるけど…」
「でも、相沢君と同じように思っているわけね」
「………」
 さすがに肯定はできなかったが、否定もできない。
「…栞、生きているわよ」
「………へ」
 ブランクの後で、北川は間抜けな声を出していた。
「あの子、死んじゃいないわよ…」
「…え、え、えーと…それは…良かった」
 その次の受け答えも、やはり間抜けなものになる。
 香里はそんな北川にちらりとだけ視線を戻した。
「手術があったわ」
「…あぁ」
「かなり、大きい物で…終わった後、ひょっとしたらダメかも知れないって言われていたけど…今のあの子はきちんとしているわ」
「それが、休んでいたとき…」
「そうね」
「そ…そうか」
 言われてみれば、普通に納得できる内容である。しかし、言われるまでは見事なまでに脳内から抜け落ちていた状況だった。
「なんで、期待するのかしら…」
 さっきと似たような事を言う。北川は香里が何を言っているのか理解できなかった。
「相沢君も、そういう部分があるみたいね」
「あいつが、どうかしたのか?」
「相沢君もそうだけど…北川君、あなたの方がその傾向は強いんじゃないかしら」
「な、なんのことだ?」
 何だかわからないが、責められているらしいことはわかる。心なしか、香里の表情が厳しさを増しているようにも見えた。
 想像を巡らしても、答えは一向に出てこない。
「わからないの?」
「…あ、ああ、わからない」
 不安げな表情で北川はうなずく。
「北川君…私につきまとうの、栞の姉だからでしょう」
「……!?……ど、どういう」
 ぽつりと吐き出された香里の言葉。どういう論理によって導き出された結論なのか、全く理解できなかった。
「死にそうな妹の姉だから、私につきまとってくるんでしょう?」
「そ、そんなことはない」
「じゃあ、なんで私に近づいてくるの?」
「それは…」
 ふさぎ込みがちな香里の理由を祐一に聞いて以来、何とかして助けてやりたいという気持ちは確かに北川の中にあった。頭の良さやルックスなどでは香里と釣り合わないとしても、そのように慰める事は自分でも出来ると思ったのだ。
 死にそうな妹の姉だからつき合おうとしている、と言われればその通りなのかもしれないが…
 だが、押し返されるような威圧感を持った言葉が、かえって北川の度胸を引き出した。
「…………俺は…美坂に惹かれている」
 北川は腹を決めて、永遠に言えないのではないかと思っていた一言を口に出す。
「理由なんてわからない。でも、どうしようもなく美坂に惹かれている…クラスメイトとしてでもなく、友人としてでもなく。一人の男として、美坂が好きなんだ」
 身体の奥が震えだしそうな気がした。事実、言い終わった後で歯がカタカタと小さく震え出す。北川はそれを無理矢理かみ殺し、あり得る限りの真剣な視線で香里を見た。
「…嘘ね。あるいは、欺瞞ね」
 一発ではねつける。
「違う…信じてくれ」
「北川君が私に対して態度を変えたの、栞と相沢君が別れてから少し経ったあとよね」
「違う。きっかけはそうだったかもしれないけど、今は違うんだ」
 香里ににじり寄るようにして訴え掛ける。
「同じよ」
 しかし、とりつくしまもなく香里は断定した。
「私が可哀想で…それを救う自分を演じたいだけでしょう」
「ち、違うっ!」
 さすがに北川も声を強める。だが、怒る素振りや馬鹿馬鹿しいといった素振りを見せる事はできなかった。ただ、必死になって香里に自分の真剣さを伝えようとするだけだ。
「もう、そういうのはうんざりだから…」
「頼む…信じてくれ。俺は、そこまで自己本位じゃない」
 一言一言に力を込めて、語りかける。そろそろ崩壊しそうになってきた。
「みんな、自覚ないのよ…相沢君も」
 香里は北川から微妙に焦点を外した目をするだけだ。
「あ、相沢は、美坂の妹と真剣につき合って…それで、きちんと想い出を作ってあげたんじゃないのか」
 形勢不利と取って、自分以外の人間に話を持って行く。もはや、すがれるものにならば何でもすがるという勢いだった。同時に、なぜ自分がこれほどまでに否定されなくてはならないのだという嘆きの思いも生まれてきている。
「でも、底に流れているものは同じ…」
「で、でもな、そんな事言い出したら、なんだって…」
「この気持ちは、私みたいな立場にならないとわからないわ」
「………」
 北川の無意識の問題、香里自身の問題。そう言われてしまっては、北川がうまく反論できる余地はない。完全にふさがってしまった。
「…わかった」
 ふらり、と精気を失った様子で北川が立ち上がる。
「もう、つきまとったりしない。でも、これからも普通の友人として、美坂とはつき合っていきたい…じゃあ」
 北川は、香里に背を向けて自分の自転車に向かった。
 考えてみれば、当たり前の玉砕とも言えるのだ。それが予期していなかった時に現れて、想像通りの結果になっただけ。これが自分の運命なのだ。
 そう思うと、少しでも期待していた時の自分がまるでバカのように感じられた。
「ふぅ…」
「…待って」
「………?」
 北川がため息をつくと同時に、香里が言った。絶対に声を掛けられることはないだろうと踏んでいただけに、心底意外そうな顔で北川が振り向く。
「言いっぱなしじゃ、悪いわよね」
「……別に、もういいって」
 北川は、世間のかなりのものをどうでも良く感じていた。今は、家に帰ってひたすら眠りたい。そしてこのやりきれない脱力感を鎮めたい。それだけだった。
 ガサガサ…
 香里はコンビニの袋の中を漁っている。何かをくれようと言うのか。だが、コンビニで変えるような代物が、今の北川にとって何の慰みになるだろう。
 カタタッ…
「?」
「あっ」
 香里が袋の中から何かを取り出すと、それが勢い余ってベンチの上に転がった。四角い箱のようなものである。何かのパッケージだ。
「なんだ、これ」
 北川は水銀灯のぼやけた光に照らされたそれを近寄って見てみた。妙に清潔感のある、薬のような箱だ。あまり大きくはない。いったい何なのか、外見からでは想像できなかった。
 そこで、書いてある文字を読んでみる。
「…!?」
 黙読を終えたとき、北川は頭が爆発するかと思った。別に怒ったわけではない。判断力をはるかに越えた事態に、完全に取り乱してしまったのだ。
「こ、これ」
「………」
 がさっ。
 香里はコンビニの袋を身体の横に置き直して、また水銀灯を見つめる。
「み、美坂?」
「…どうしたの」
「ど、どうしたもこうしたも、これ…」
 皮肉なのではないかと思った。だが、それを見たときに頭の中に浮かんできた可能性を、どうしても打ち消しきれない。
「見るのはじめて?」
「か、買ってるの見るのはな」
「私もそうね」
「そ、そうか」
 香里はそれきり何も言わなくなった。北川は自分から新たな言葉を発する事はできず、箱と香里の顔を交互に見比べながら立ちつくす。
「どうしたの」
 再び香里が聞いてきた。
「どうしたの、って言われても…」
「意味、わからない?」
 皮肉、か、あるいは…
「…わからない」
 北川はそう答えていた。どちらの想像を答える事もできない。ただ、それぞれの理由は全く異なっていた。
「何に使う物かもわからないの?」
「そ、そりゃわかるけどな」
 北川は自分の腕をさすりながら言った。まるで落ち着かない。
「だったら、意味もわからない?」
「ちょ、ちょっと…混乱している」
「したいんでしょう?」
「そ、それは、状況とか場合とかに…」
「YESかNOかではっきり答えて」
 きちんとアクセントをつけた二つの単語に、北川は追いつめられる。
「…したい」
「だったら、話は早いでしょう」
 ここに至っても、北川のふたつの想像のどちらかを確定づける情報は生まれてこなかった。香里は体勢を全く変えずに水銀灯を見つめている。表情もクールだ。声にも動揺や焦りの様子はない。
「み、みさかも、できたらはっきりこたえてくれるか?意味…」
 震えきった声で北川は問いかけた。告白したときと同じくらいに、あるいはもっと震えている。感情の動揺も、告白の時とは別種の物であるとは言え、非常に激しかった。
「………」
「い、言いたくないんなら、俺はこのまま帰るけど」
「何を深読みしているのかしらないけど、私はそのままの意味でこれを渡しているわよ」
「だ、だからそのままの意味って」
「セックスをするために、北川君が使いなさいって言っているのよ」
 ついに出てきた生々しい言葉に、北川はごくりと唾を飲み込む。だが、ここに及んでも、まだ皮肉の可能性を完全に捨て去る事はできなかった。
「…だれに?」
「北川君、ふざけているの?」
「ふ、ふざけてなんかいないっ!ただ、こんなことで俺の早とちりがあったら大変だって思っているだけなんだっ」
「早とちり、ねぇ…」
 香里はわずかに表情を歪める。
「だから…教えて欲しい」
「…私に」
 ぴしりと、脳内を電流が駆け抜けた気がした。
 心臓が早鐘を打ち始める。それと同時に、ペニスがぐいぐいと勃起を始めてしまった。
 止まれと思っても全然止まらない。力を抜こうと思っても、この上ないほどに力強く勃起がズボンを押し上げてくる。なんでそんな事を言いだしたのかという事を確認しなくてはならないと思っているのに、ペニスの方はどうしようもないほどいきり立って、大量の血流で脈動した。
「み、みさか」
「じゃあ、はじめましょ」
 香里がベンチから立ち上がって、北川の方に向き直った。
「な、なんで?」
「バカな事言わないで。あなたがしたいって言ったのに、なんで始めるのかもないでしょ」
「い、いや、そうじゃなくて…なんで、抱かせてくれるんだ?」
 抱かせてくれる、と言っていても、まるで現実感がなかった。目の前には普段通りの表情と服装の香里がいるのだ。その服を脱がせて、香里の表情を痛みに歪ませるのが今の自分なのだとは到底思えない。
 そこまで考えてから、香里が処女だという自分の前提が少々疑わしくも思えてきた。
「あなたがしたいって言ったからでしょ」
「そ、そんなんでいいのか?そんな簡単に…」
 ダメだ。
 自分がそういうつもりで香里を好きになったのではない事を伝えようとしても、うまく説明できない。しゃべる毎に、香里のペースに巻き込まれていってしまう。
「いいのよ」
「す、少しは…」
「北川君が私の身体目当てだったって事がわかれば、お互いすっきりするでしょ」
「………」
 つまり、北川をはねつけようとするために香里は抱かせようとしているという事になる…
 身体目当てなんかじゃない…と叫ぶだけの勇気は、北川には湧いてこなかった。なぜなら、香里の痴態を夢想して自慰したことがあるからだ。決してわずかな回数とは言い切れない。
 だが、香里の行動を理解することもできなかった。既に北川は香里を諦めかけていた事は誰の目にも明らかだったろうし、第一好きでもない男にどうして身体を開けるのか。女ではない北川にも、身体を捧げることがそれほど軽い意味ではない事は想像できる。社会的な意味だけではない、身体に深く刻まれるものがあるはずだ。そう北川は考えた。
 しかし。
 ざっ…
 地面の砂が動く音がする。香里が身を再びベンチに乗せたのだ。今度は腰掛けている体勢ではなく、ベンチの上で手を横に下ろしたまま体育座りをしている状態だった。そのまま膝を伸ばして背中を倒せば、ベンチの上に寝転がる体勢になってしまう。
「北川君?」
 香里がそう言って自分の事を見た。無防備な体勢で見つめてくるその瞳は、無表情なようでいてたまらなく魅力的である。自分をうながす声が、軽蔑に満ちているのではないかという思考は抜け落ちてしまった。
 男としてのプライドを守るか。永遠に手に入らない恋の対象の気まぐれに乗じて、一回だけの行為に及ぶのか…
 ここでもし無言で帰ったとして、今後北川の恋心が実る可能性は…0と言っても過言ではない。香里はあれだけはっきりした形で、北川の事を嫌う事を述べたのだ。
 ダ、ダメだっ…
 北川はなんとかしてそういう思考を振り払おうとする。
 するっ…
 ついに香里は身を横たえてしまった。艶めかしく伸びた綺麗な脚が見える。それが消えていくスカートの中は暗かったが、光さえあれば奥まで見えてしまいそうな状態が自分の目にさらされているのだ。そして、さらにその奥まで行くことを自分は許されている。
 ち、違う…気をしっかり持てっ…
 ふら…
 ずざっ。
 混乱した意識のせいか、ふらついて前に一歩踏み出してしまった。
「北川君」
 ずざっ。ざっ。ざっ…
 あまりに見事なタイミングで被さってきた香里の言葉に、北川は歩みを止める事は出来なかった…


 香里は、当たり前の事のように服を下ろしていた。灯りは水銀灯とは言え、香里の肌の色がよく分かる。スカートが無くなっただけで、北川は頭に血が上ってくる感覚を感じてしまったのに、その下につけられていたごく薄いブルーの下着も香里は躊躇無く脱いでしまったのだ。
「………」
 核心的な部分が、シャツにほとんど隠れていたいたのが一つの救いだった。もしいきなりその部分が見せられていたなら、冗談抜きで北川は立ちくらみを起こしていたかもしれない。
 それから?
 北川は次に自分の起こすアクションが何なのか判断できなくなっていた。
 香里が全く普段通りの、強いて言えばかすかな憂鬱さくらいしか漂わせていない表情で身体を晒しているのだ。裸体画、などというまるでトンチンカンな語彙が頭に浮かんでくるほどだった。
 それは正に、自分の欲望を骨抜きにしようという無意識の方便だったのかもしれないが…北川は、自分がバカになかったのかと真剣に悩んだ。
 そうやってくだらない逡巡をしている北川に対して、香里は何をも言うことはなかった。わずかに視線を空の星々にずらしながら、微動もせずにいた。
 頭は動かなかった。しかし焦りだけは募(つの)った。何をすればいいのか、という問いは出てくるのだが、それに対するごく当然の答えにたどりつく事もできないのだ。答えの妥当性に迷っているわけではなく、単純に答えにたどりつけないのだ。
 ブロ…
「!!」
 突然、遠くの方から車の通る音が聞こえてきた。
「あっ…あ…」
 北川は周囲を見回しながらうろたえる。一方の香里は、何も反応しなかった。
 この公園に面した通りではない。もっと遠くの方から聞こえてきた音だ。仮に面していたとしても、かなりの木々に覆われているこの公園が外から様子を見られる事はあり得ないだろう。
 かと言って、安心できるわけはない。北川は自分と香里の置かれている状況を再認識して、ますます臆病になる。
 は、早くしないと…
 しかし、行為を始める事自体がすさまじい不安を伴う。北川は完全な拘束状態に陥った。
「…ふぅ」
「………」
 その時、香里が何の前触れもなくため息をついた。
 北川は固唾を飲んで次の行動を待つが、香里は何もしない。ため息をついただけで何も言わず、体勢すらも変えない。表情も全く前と同じである。感情を持った人間であると言うことが疑わしいほどに、反応を見せない。
 ざっ。
 それでも、ため息はひとつの引き金となったようだった。北川は最後の一歩を踏み出す。それによって、北川の手の届く位置に香里の肢体が来た。
 すると、香里がしっかりと呼吸しており、胸が規則正しく上下している事を確かめることが出来る。
 それは多少の安心を北川に与えたが、同時に香里のシャツが秘部を完全には隠し切れておらず、ヘアが見えている事も分かってしまった。ズキン、とペニスに響き、また動揺を呼ぶ。
 思わず視線を香里からそらした瞬間、ベンチの上に転がる箱が目に入ってきた。反射的に、それをかぶせて隠してしまいたいという感情が生まれる。
 次の瞬間、がっ、と北川は箱をつかんでいた。もはや行動原理が何に規定されているのかもわからない。それを突き詰めていくだけで、このまま地面にへたりこんでしまいそうだった。
 …からっ。
 なかなか上手く開かないその箱の中から何とかして目的のものを取り出すと、乾ききった音を立ててベンチに空箱が転がる。
 びっ。
 パッケージを破ると、青系統の色をしたゴムが見えた。それを指でつまんで、パッケージの方は地面に捨てる。平べったい円のような形をしたそれを観察する余裕もなく、北川は香里に背を向けて次の行動に移った。
 片手でズボンを下ろすというやりにくい作業を何とか終えて、トランクスも下ろす。ズボンに比べれば格段に下ろしやすいトランクスに妙な安心感を覚えた。
 そして、暗闇の中に現れた己の肉棒に、ゴムをあてがう。巻き込まれたゴムを少しずつめくっていくと、思っていたよりも簡単にペニスがゴムに包まれていく。知識の上だけでも装着について知っておいて良かったと、北川は胸を撫で下ろしていた。
 根元までゴムをはめてから、北川は香里の方に向き直る。
「………」
 香里は、さっきと全く変わらない状態だった。だが、自分に向いている視線というものを、先ほどに比べればどうしても強く感じてしまう。単色のゴムに包まれた自分のペニスが、間抜けに下ろしたズボンとトランクスが、香里に軽蔑されているのではないかという感情が否応なく生まれる。
 それでも、北川は天を仰ぐペニスを隠すことはしなかった。もう後には引けないのだ。引き下がったところで、己のプライドをさらに傷つけて、悪ければ同じプロセスを繰り返すだけなのだ。
 だが横たわる香里に近づいていくのはそれだけで一苦労だった。一挙動ずつを確かめるようにしながら、北川はベンチに片足を乗せ、横に足をスライドさせ、もう片方の足を乗せ、香里をまたぐ。
「うぅ…」
 北川は思わずうめいた。香里をまたぐ時だけはバランスの関係でゆっくりとした動作にはならず、一瞬でまたいでしまったのだが、その状態で見る香里の姿は予想以上に北川を圧迫した。香里に大して優越的な位置にいるにも拘わらず、後ろに倒されそうな圧迫感を感じずにはいられなかったのだ。
 その圧迫感に対抗するかのように、北川は前に姿勢を倒す。さっきと同じようなゆっくりした動きにしたかったのだが、それは無理だった。
 がっ。
 北川は香里の身体の左右、ベンチの板に両手をつく。体勢で言えば、もう完全に香里を組み敷いているのは間違いなかった。
「はぁっ」
 息を吐き出す。視界が限定されて、香里のスカートばかりが目にはいってくるようになっていた。そうなると、不思議に香里という特定の存在が生む圧迫感や威圧感は消滅する。
 余裕を無くしていた北川は、その単純な思考の動きに従うことにした。
 かち…
 北川はTシャツの裾に隠れていたスカートのホックに手を伸ばす。
 かち。かち。かちかち。
 片手で何とかそれをはずそうとしたが、上手くいかなかった。急激に焦りが膨らんでいく。
 …カチ
 不意に香里の手が伸びてきて、スカートのホックを自らはずした。
「………」
 礼を言うべきだったのかもしれないが、そんな事をしてはまた香里の存在が重くのしかかってくる。北川は香里のスカートだけに目を向けて、それを下の方にずり下ろしていった。香里が腰を上げてくれたこともあって比較的スムーズに下りていったが、体勢の都合上ある程度までしかおろせない。それでも膝より下まで何とかスカートを下ろした。それで十分と判断して、北川は視線を元の位置に戻す。
 当然のこととして、そこにはショーツがあった。ぼんやりと水銀灯に照らされた薄青色。比較的デザインはシンプル。
 それが見える事など当たり前だったはずなのに、北川は心の中で大いに取り乱した。
 何も考えるな、何も考えるな、何も考えるな…
 ついに北川はおまじないのように連呼し始める。無論口には出していない。
 何も考えないというよりはそのおまじないで頭をいっぱいにした状態で、北川は指をショーツにかけた。少しずらしただけで陰毛が見えてきた。さらにずらしていくと、陰毛のエリアに沿った中央のラインが見えてきた。
 早鐘のようにおまじないを叫びながら、北川はなんとかそれをクリアする。しかし、ここからは完全に理性を飛ばした状況であるわけにはいかなかった。挿入すべき箇所を確認しなくてはならないのだから。
 北川は少しずつおまじないをいかがわしい知識や画像にスイッチしていった。頭の中をヌード写真やセックス入門のイラストで埋め尽くしていくと、香里の裸も多少リアルさを失ってきたように思える。その隙間にアダルトコミックの台詞などを詰め込むと、何とか準備は整った。
 二本の指を、ヘアの間のラインに当てる。そして入り込み、唇の構造に似た部分を左右に開く。
 陰毛で見えにくかったが、暗い中でも鮮紅色かピンクに属していると分かる肉の色が見えてきた。襞(ひだ)のある複雑な構造の中で、北川は自らの知識がそうだと教える部分に指を触れさせてみた。果たしてそこには、肉と肉の間に生まれた隙間のようなものがあった。
 北川はその状態を注意深く維持して、下半身を香里の下半身にぴったり近づくようにずらしていく。そしてブルーのゴムに包まれた分身を、自分の指が開いている部分に紛れ込ませていった。そして、確認を終えた肉の隙間にしっかりとその先端を宛う。あとは押し込めば入っていくはずだった。
「入れるのね」
 意識を低レベルにして渋滞なく下準備を終えた北川の耳に、突然の声が響く。一瞬、北川はそれを香里の声と認識できなかった。それだけ意識を性行為の知識でぎゅうぎゅうにしてしまっていたのだ。
 だが、その中に香里の声が水中で踊る糖液のように入り込み、単純化に成功していた北川の単純な意識を乱していく。
「…入れるっ!」
 それに大して北川が取った行動は、短い叫びだった。それは再び単純へと北川の意識を逆流させていく。
 ずぶぅ。
 押し込んでいく感触。それが何を意味するのか、とっさには理解できなかった。意識は自ら極限まで薄めていたし、ペニスはゴムに覆われていたのだ。
 すぅぅぅぅ…
 香里が息を大きく吸い込むやや苦しげな音で、ようやく北川は行為が開始された事を認識できた。でもそれをはっきりと認識するのが怖く、意識薄弱のままに腰を押し進めていく。
 ず…ずぶ…
 それは予想していたほどに困難な作業ではなかった。腰に力を入れれば入れただけ進み、思った以上に進んでしまったり力を入れても進まなかったりする事はない。
 ずん。
「あ…」
 そのために、北川はペニスの先が何かに当たる感触がするまで何も考えずに腰を進め続けていた。反射的に小さく声を出してしまう。
 見てみると、ブルーのゴムに包まれた部分のかなりがピンク色の肉の間に消えていた。そして、分身の全体をやわやわと締め付けてくるような感触がゴム越しに感じられる。それは疑いようもない。
 美坂と…俺が…つながっている。
 夢じゃないよなぁ…
 思わず北川は朝起きてから夜コンビニに向かい、ここに来るまで、そして香里との問答を記憶から引っぱり出していた。と言っても今日は休日で朝からごろごろしていたから、何をしていたのかもよく覚えていない。朝のご飯茶碗の米粒が取れにくかったこと、昼の焼きそばが焦げ気味で母親に文句を言ったこと、午後していたRPGがとんとん拍子に進んだこと、朝起きてすぐにトイレに行ったこと。それくらいだった。
 香里に会ってからは何もかも普段から想像できない事態ばかりで、リアリティーのカケラも見出す事が出来ない。そうするとゴム越しに感じられる快感が、香里の膣の締め付けによって為されているなどという事は嘘八百のように思えた。それが自然であるような気がしてきた。
「どうしたの?」
 香里の声。
「え?いや…いや」
 いつもそうであるように、香里の声は凛と響いた。それだけで、北川の現実に対する疑念は雲を晴らすかのように吹き飛ばされてしまう。疑う気持ちは残っていても、つい直前に聞こえた香里の声からリアリティを剥奪する事がどうしても出来ないのだ。
「な、なんだか、嘘みたいだなって思っただけ」
「………」
 北川は本心を述べてしまっていた。香里は何も言わない。北川は表情をうかがう事もしなかったから、香里がどういう反応をしたのかさっぱり分からなかった。
 ず…ず…
 どうにも間が持たず、北川は腰を浅めの位置まで戻す。
 ずずっ。
 そして再び差し込んだ。自然なワンセットの動きである。あまりに自然すぎて、とんでもない事をしているのが飲み込めなかった。先をふさいだ注射器のピストンを動かし、空気を圧縮させて遊んでいるようなものである。ある程度の抵抗はあるし、それが楽しいのだが、それだけなのだ。中身は何もない。
 ずっ、ずっ、ずっ
 北川はいつの間にか連続した腰の動きを始めてしまっていた。完全にスムーズと言うわけにはいかないが、途中で引っかかったり抜けたりという事はなく、何とかセックスの形になっている。最初はかなり乖離を感じたペニスと膣壁の距離も、少なくなってきたような気がした。まるでゴムが薄くなってきたみたいだ。
 ずっ、ずっ、ずっ
 とりあえず途中でペニスの抜き差しにトラブルがないようにするために神経を集中させなくてはならなかったので、北川は余計なものに意識を囚われないで済んだ。香里の顔も見ないし、周りに人の気配がないかなどという事も気にしない。運動によって上がってきた自分の呼吸音が、いやに大きく聞こえ始めていた。
 ずっ、ずっ、ずっ
 何分それを続けただろうか。北川の身体に、発射への準備が知らされる。それは生まれるとすぐに大きくなって、北川のペニスの真下に近づいてきた。
 ずっ、ずっ、ずっ
 マスターベーションしている時の方がもう少し早い。締め付けがそれほど強くなかったので、北川が限界を迎えるまでにも余裕ができていたのだ。
 ずっ、ずっ、ずっ
 出しても問題ない。ペニスに被せられたゴムの中に出すだけなのだから。
 ずっ、ずっ、ずっ!
 最後に香里の一番奥にペニスを差し込んで、北川は動きを止めた。尿道を一瞬にして何かがせり上がってくる。
 ビク、ビクビク
 勢い良く北川は精液をほとばらせた。無論それはゴムの中に溜まって、一滴たりとも外にはこぼれない。
 ビクビク…
 放出感はいつもよりも大きいようだった。出ている量も多い。無感動に行為を続けていても、自分の身体はちゃんといつもとの違いをわきまえていたようだ。
 最後の一滴まで出し切ってから、北川はずるずると腰を引いていく。
 ちゅぷ…
「………!」
 ブルーのゴムが香里の中から抜け出る瞬間、はっきりと水音が聞こえた。
 北川の視線が交わっていた部分に向かうと、肉の隙間の辺りからとろりとした透明な液が出てきているのが見える。水銀灯の光の下でも明白だ。北川の出したものではない。これは間違いなく…
 美坂の…恥ずかしい液…?
 よく見れば、ゴムもその液体とおぼしきものでうっすらと濡れていた。
 まだ外していないゴムの中でペニスがさらに勃起を始めるのが分かった。元より放出しても北川のペニスはほとんど収縮していなかったのだが、それがさらに固くなって、カチカチになってしまう。
「終わりね」
「あ…ああ…」
 北川は香里の顔を見ずに固い声で言う。
 初めて北川は香里の性器に欲情していた。


「………」
 ぐったりとしている。
 枕に顔を押しつけたまま、かれこれ数十分が経っていた。部屋の照明は消されている。そのまま寝てもおかしくない状態だったが、眠れなかった。頭から思考がこびりついて離れないのだ。
 終わってからどうやって家まで帰ってきたのかほとんど覚えていない。行為の終了後、普段通りの口調で香里が二言三言口にするだけで、北川は自分がこの世で最低の人間のような気がしてきてしまったのだ。あとは自転車で逃げるように帰ってきただけである。
 帰り道ではシャアァァというチェーンの音と勃起していた事しか覚えていない。
 それで、自分の部屋に帰ってからマスターベーションしてしまった。それはもう無意識に近い行動で、止める事も止めようと考える事も出来なかったのだ。オナペットが香里だったのは無論である。
 そして、存在を揺すぶられるような大きい脱力感と虚無感に襲われ…ベッドにうつぶせに倒れ込んでしまったのだ。
「うぅぅ…」
 その事を思い返すだけで北川は渦巻く恥の感情に取りつかれ、ぐりぐりと自分のこめかみを押す。しかし、自慰をしながら嬉しそうに北川のペニスを生でフェラチオする香里の姿は脳裏に焼き付いて消えなかった。
 どうして…
 どうして、あんな事になったのか…
 整理しようとしても、無理だった。
 香里が北川の妄想に登場する時のようにセックスの経験を積んでいるなら、北川に一度抱かれようと構わないのかも知れない…もちろんペニスを挿入されるのがどういう感覚なのか北川には分からないから、これは仮説に過ぎない。
 だが香里が身を捧げるような相手はまるで思いつかなかった。だいたい、香里は学校の男連中から敷居が高いと見られていたのだし、部活では女の子ばかりだ。そして栞の入院以来のふさぎ込みを考えれば、香里が肉体関係まで及ぶような恋人を作っていたとは考えにくい。と言っても北川が中学の時の香里や校外での交友関係を知っているわけではないから、これも仮説に過ぎない。
 でも、血は出なかったような…
 しかし処女を散らすときに誰もが皆血を流すというのも、ひとつの神話に過ぎないのではないだろうか。香里は中学時代バスケをしていたというのは聞いた事がある。そうすると処女膜が破ける事があるという話をどこかで読んだ。だがそれも神話かもしれない。
 わからない。
 もう北川には明確な判断を下すことなど出来なかった。どれが正しいのか正しくないのか判断する材料が決定的に不足している。
 ただ…
 やっぱり相沢は栞さんの事マジで想っていたんだし…そういう事を聞かされる場で抱いたとか言ったらキレるじゃ済まないよな…美坂にとっても、最後に支えになる人間なのは多分相沢なんだ…口じゃ言わなくても、そうに決まってる…栞さんを通じておんなじ苦しみを味わってきたのは本当だろうし…
 ばふ、ばふ、ばふっ。
 北川は枕を叩き続けることしかできなかった。