香里[携帯]


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 相沢祐一は両親の仕事の都合で、雪国にある親戚の家で暮らす事となる。子供の頃はよく訪れていた街だったが、今の祐一にとってこの街は7年ぶりだった。
 叔母である水瀬秋子と従姉妹の水瀬名雪と共に、祐一は新しい生活をスタートさせる。その中で、祐一は名雪の友人である美坂香里や、クラスメイトの北川潤とも友人となっていった。
 やがて、祐一は病気で学校を長く休んでいるという少女、美坂栞と出会う事になる。そう、香里の妹である。最初は病名を誤魔化していた栞の病は、実際には致命的なものであった。
 香里は祐一に対し、妹の存在を否定する。香里が現実逃避をする中、祐一は栞と恋人関係を築いた。死に向かう栞と、想い出を作っていくため。ある時、香里は祐一に対し、泣き崩れながらに妹への感情を吐露する。
 祐一と栞の関係は、ある日をもって終了した。恋人関係は1週間。それは祐一と栞、二人によって決められたものである。
 それから1年以上が経過した。栞は、既に病院で死を迎えていた。
 香里達にも大学生活が訪れている。


 ヴーッ。ヴーッ。ヴーッ。
 周囲の人間に聞こえるか聞こえないか、ほんの微かなヴァイブレータ音。
 少し慌てたかのように、申し訳なさそうに–––それは、周囲の人間に対する「社交儀礼」みたいなものだ–––ナイロントートの中を探る女性の姿。山手線の中では、南西側の半分の円弧を中心として、いつでも見られる光景だ。
 もっとも、それが本当の円弧として現れるのはいい加減な鉄道マップやCMソングの中だけの事なのだが。山手線に乗って毎日同じ通勤・通学をしている人間も、実際には極めて蛇行したルートを取らされているのだ。決して、同じ曲率のレールの上を延々と回されているわけではない。
-北川- 『水瀬と祐一がくっついたらしいぞ!こないだ二人が歩いてるの見たけどなんか高校の時に比べて全然違う雰囲気だったぜ』
 だからこそ、こんな動揺も時として見られる。
 折り畳み式の携帯電話のディスプレイに現れた文字列を、香里はじっと見つめていた。バッグの中にしまい込むでもなく、ボタンを操作するでもなく。ただじっと見つめていた。
 仮にメール操作でさえ目くじらを立てる人間が香里の周りにいたとしたなら、香里の妙な様子に気がついたかもしれない。だが、残念ながらJRにおいて車内での通話以外を目的とした携帯電話の使用は暗黙の了解を獲得してしまっていた。そんな事で怒鳴り声を上げる男は、周囲の白眼視をまぬがれる事は不可能なのだ。
「まもなく渋谷ー渋谷です。東急東横線、京王井の頭線…」
 ノイジィなアナウンスで、香里は我に返る。親指が少し動くが、思い直したかのように残り4本の指が携帯を折り畳む。香里はそのまま携帯をバッグの中に放り込んだ。
 やがてドアが開き、香里は山手線の中身をすっかり入れ換える流れに身を任せていった。


『そんなのあなたの思いこみでしょ。あの二人のじゃれ合いに全部つき合っていたら、いくら疑ってもキリないわ』
 ボタンを音も無く押す。そういう設定なのだ。
 香里は携帯を右手に握ったまま、車窓を通してぼんやりと外の景色を眺める。
 東京の景色と言っても、私鉄の窓から見える風景には意外と緑が多いものだ。人が恣意的に植えたものであるのは間違いないが、それを言ったら香里の故郷の象徴のようだったポプラの木も人工的に植えられたものという点で同じになる。
 入学式の時にほとんど散っていた桜の木にも、少しずつ若葉が吹き始めていた。高校の時は、入学式の時にまだ桜が咲いていないという状態だったのに。
 加速したかと思ったら減速する電車のペースにも、香里はもう大分慣れていた。高校の時は電車というと、小旅行のための特別な移動手段でしかなかったのだ。車で移動した方が、よっぽど日常的に感じられた。
 …結局、香里にとって東京は未だ故郷との比較対象にしかなり得てなかった。
 生活に慣れるほどに、肌で感じるリアリティーというものが無くなっていくのだ。東京とはそういうものだと言ってしまえばそうなのかもしれないが、香里は居心地の悪さをそのまま受け止める事が出来なかった。だが新しい友人にそれを話しても、返ってくるのは僅かな同情と激励の言葉でしかない。
 またその度に、東京の人間から見れば(東京出身の人間でなくても)、香里は故郷の空気に慣れきった人間であるという事を思い知らされた。実際に故郷にいた時は、周りから少し浮いていたように思っていたのに。
 つまり、私は、どこにも居場所を無くしつつあるのだ。香里はそう自己分析して、思考を停止した。
 ふぅ…
 ふと、顔を上げて後ろの方にあるドアを見てみる。
 開いていた。
 ホームの向こうに、いつも見慣れている予備校のカンバンが見える。それから、大学の近くでよく見かける制服を着た高校生が何人か歩いている。
「すいませんっ」
 香里は乗ってきた人の間から、慌てて電車を降りた。
 降りた瞬間、空気音を立ててドアが閉まる。
 ヴーッ。
「あっ…」
 同時に右手の携帯が着信を知らせた。意識がどことなく遊離していたせいか、香里は小さく声を上げてしまう。
 横を歩いていた女性が少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに何事も無かったかのように階段に向かって歩いていく。
 香里は少しだけ赤面した。そして、階段の方に歩きながら携帯を操作し、開きっ放しだった携帯のディスプレイを見た。
-北川- 『ちがうって。O大学に俺友達いるんだけど、そいつがあいつらの話聞いた時に、結構ヤバい話してたらしいんだわ』
 香里はすぐにボタンを操作して、「返信」を選択する。
『そういう曖昧な表現されても、わかるわけないでしょ?』
 30秒で打ち込み、送信する。
 さっきは浮かんでこなかった祐一と名雪の姿が、今度は微かに脳裏に浮かんできた。
 祐一と名雪は同じO大学に進学した。香里も、二人の受験校の相談にのったことがある。結局、二人の学力に差があまり無かったこと、自宅通学を維持するという条件などを鑑(かんが)みて、同じO大学を薦めたのだ。二人は堅実に勉強し、数人で受けに行った予備校の模試の結果でも合格確実圏に食い込んでいた。
 そして受験を迎え、二人はO大学に、香里は東京の国立大学に合格した。北川は理系だったこともあり、O大学ではないようだが、同じく自宅から通えるH大学にしたらしい。
 受験が終わったのはたかだか2ヶ月前の事なのだが(ただし香里の結果が決まったのは一番遅かった)、香里は受験期に対して懐かしみのようなものすら覚えていた。
 ヴーッ。
 階段にたどり着いていないのに、また携帯が震える。刹那の想像が霧散する。
-北川- 『聞きたい?』
 香里は階段を上がりながら「返信」を選択した。だが、そこになかなか文字を打ち込もうとしなかった。
 ヤバい話。
 階段を上りきってしまっても、まだ何と返事したものか浮かんでこない。
 とりあえず香里は携帯を畳まずにバッグに放り込み、代わりに定期入れを取り出した。
 自動改札に定期を入れる。
 カシュっ。
『入札記録がありません 乗車券をお取り下さい』
 香里は、流れるような手つきで自動改札から出てきた定期を取れるようになっていた。こんなのも、東京慣れの一つの指標になるのかもしれない。
 改札の周りに、今の電車で降りたとおぼしき人間の姿はもうほとんどいなくなっていた。そこから左に向かったところに、今度は下りの階段がある。大学から帰るところなのか、2,3人の人間が下から上がってくるのが見えた。
 香里は定期を定期入れに入れてバッグに戻し、また携帯を取り出す。ディスプレイには、さっきと同じ空白のメッセージ欄が表示されていた。前時代的なドット表示と、グリーンのバックライト。純粋に意志疎通のためのツールとして作られたという印象を受ける。
 階段を下りながら、どんな文章を打ち返したものか考える。階段を上がるならともかく、下がるときに足下を見ないのは不安なものだが、香里は魅入られたかのようにディスプレイを見つめていた。
 下りていくペースは極めてゆっくりだったが、階段が残り5段になったところで香里の親指が動き始めた。
『いいわよ。自分で聞くから…』
 一度メッセージが決まってしまうと、打ち込むのは速い。香里は最後の段を下りると同時に、送信を選んでいた。
「はぁっ…」
 何か大仕事をしたかのような疲労感が香里を包んでいた。だが、達成感は感じられない。むしろこの後香里がすべき事の方が、複雑なのだ。
 香里は空を見上げた。雲一つない快晴の中に、ぬっと立つ大学の正門と校舎、キャンパスの中の深緑(しんりょく)の樹が視界を構成している。駅を下りて50mも歩けば大学の入り口があるのだ。
 故郷に比べれば空の清潔感は劣っていたかもしれない。それでも、香里は自らの心を落ち着ける媒体としてこの天気を利用する事にした。
 ヴーッ。
「………」
 顔をしかめながら、香里は受信を選ぶ。
-北川- 『へー』
 よっぽど何か返してやろうかとも思ったが、香里は自制することにした。


 マイクを使った教官の声が教室に響く。割とよく通る声で、語の緩急も的確だった。授業内容は配られたレジュメとほぼ同じと言えたが、内容が高度なために必ずしも退屈な教科とは言えない。『社会哲学』のK教官。良い意味で授業慣れしていると言える。
 香里は机にレジュメとルーズリーフを並べ、教官の話にじっと耳を傾けていた。時折ノートやレジュメにシャーペンや赤ペンを滑らせたり、黒板の殴り書きを書き写したりする。
 授業はアーレントに関するものだった。ナチス絡みの、教官がパソコンで作ったと思(おぼ)しきレジュメが配られている。
 教室の後ろの方に陣取っていたため、香里の周りにはあまり生徒がいなかった。教官の目の前は3人掛けの机がほぼ一杯になっている–––ノートパソコンを使っている人間も少し見られた–––が、授業内容のせいか教室を溢れかえさせるほどの授業ではない。
 大学という場は、教官の話を何も聞かないでも授業を易々と理解するという人間の存在を否定している感もある。香里も、高校の時の授業は半分しか聞いていなかったクチだが、大学ではそういうわけにもいかなくなった。もちろん、それは彼女が真面目だからなのだが。
 香里の携帯は、横のイスに開きっぱなしのまま置かれていた。そうしておくと着信の時激しい振動音がするのは香里も知っているはずなのだが、メールを打とうとしている間に授業が始まってしまったため、無意識の内に横に置いてしまったのだ。
 教官がアイヒマンの話を始めたあたりで、時間が無くなった。
 香里は6ページあるレジュメと3ページ書いたルーズリーフをファイルにしまい込む。そして、結局鳴ることのなかった携帯に一度ちらっと目をやってから、何事も無かったかのようにバッグに入れる。
 教官に質問をしている学生を後目に、香里は教室を出た。
「あ、香里ちゃん?」
 後ろから声がした。振り向くと、知った顔がある。
「なんか授業?」
 同じクラスの女の子だった。たしか、浪人していたはず。最初会ったときに、香里の事を浪人と間違えていた。それは、彼女だけに限った事ではないのだが。
「社哲。ちょっと疲れたわね…でも、次は休講だから」
「そうなの?私、次数T。これはこれで疲れるけどね」
「もう数学やる気はしないわ。受験で十分」
「そういう人、多いみたいだけどね。私はこっちの方が単位取れそう」
「単位か…テストとか、どういう雰囲気なのかよくわからないから。どれだけ勉強すればいいのか分からないのが辛いわね」
「大丈夫よ。周り見ても、香里ちゃんは相当真面目にやってる方だって思うから。必修脱落者、そろそろ出始めてるじゃない」
 その面々の顔を思い浮かべ、香里はちょっとだけ可笑しくなる。
「ところで、やっぱり香里ちゃんはサークルとかやらないの?」
 「社交儀礼」。
「そうね」
 いつの間にか、香里達は12号館の入り口まで来ていた。
「やらないと思うわ」
「そう…」
「それじゃ、私はどこかで暇つぶすわ」
 香里は、彼女の目を見ずに言った。かつて彼女が似たような質問をして、香里が同じような返答をしたことがあった。その時彼女の目を見て、いたたまれない気分になった事があったのだ。
 香里の足は、とりあえず彼女の向かった方向と逆方向に進んでいた。どこに行くあてがあるわけでもない。しかし、メールを打つくらいならどこでもできる。
 ゆっくり歩きながら、香里はまたバッグの中に入れた携帯を取り出した。開けると、また空白のメッセージ欄だけが表示されている。
 しかし、なぜか先程あれだけ悩んだ文面が、今はすらすらと出てきた。
『相沢君は、どう?』
 「送信」を選ぶ。押してしまってから、瞬間的に名雪のどこかあどけない瞳が浮かんでくる。
 「停止」ボタンがあったら、押していたかもしれない。しかし、無かった。やがて「送信完了しました」が表示される。
 待ち受け画面を表示すると、14:30だった。O大学の時間割がどうなっているのかはわからないが、メールを打ち返す暇くらいならどこかで見つけられるだろう。名雪の性格を考えれば、少々遅くなるのは間違いなさそうだが。
 空を見る。少しだけ、雲が出てきたようだった。それでも、気象上は快晴だ。快晴の定義を、小学校か中学で教わったことがある気がする。詳しくは覚えていないが。


 ガーッ!ガーッ!
 耳障りな振動音が響く。香里は慌ててチーズバーガーの包みから手を離し、携帯に手を伸ばした。テーブルの上に携帯を置きっぱなしだったのだ。
 折り畳んだ状態のまま震えるそれを開き、「受信」を選択する。
-水瀬名雪- 『香里、誰から聞いたの?』
 そのディスプレイを見つめたまま、香里は硬直した。
 香里は、名雪があくまで曖昧に誤魔化して来ることを予想していたのだ。悪びれた様子もなく、逆に聞き返して来るような名雪は想像の範囲を越えていた。
 外の宵闇を威圧するかのように照明を発し続ける、平日午後7時のハンバーガーショップのざわめきがすうっと遠ざかっていった。香里の中に、不定(ふじょう)な怒りの感情が沸き起こりつつあるのだ。
 まずその怒りは名雪に向かった。だが、香里の前に恐れ戸惑う名雪の幻が浮かんでくると、怒りは一瞬に戦意を喪失する。そして怒りは別の対象を探し求め始めた。
 香里の親指が素早く動き、「返信」を選んだ。
『相沢君の番号教えて』
 間髪入れず「送信」を選ぶ。
 がっ。
 「送信完了」のメッセージが表示されるのも待たず、香里は携帯を乱暴に置いた。そして、前髪を両手でかき上げるようにして、テーブルに両肘をつく。フタを閉められたブレンドコーヒーが、ちゃぷっと水音を立てた。
 相沢祐一。
 香里の妹の、かつての交際相手だ。今は違う。
 久しく思い出した事もない情景が、いくつもいくつも沸き上がってきた。それは主として香里の妹、栞を中心としたもの。そのファイナル・ステージに時折現れた、祐一の姿。
 その情景に、香里の姿は少なかった。そこで香里は一つの役割を担ったにも拘わらず。無論、自分を自分で見つめる瞬間というのは往々にして少ないものなのだが。
 だが香里は喪失感を感じた。故郷の2月、「凛とした」という形容が正に相応しい空気と、東京の生ぬるくぼやけた空気の激しい落差がそうさせたのかもしれない。清潔な氷点下に、香里は焦がれたのかもしれない。
 ガーッ!
 また激しい音がハンバーガーショップに響きわたる。
 香里は急ぎ顔を起こすと、少しばつの悪そうな顔をしつつ携帯のボタンを押して振動を止めた。二度目ともなると、さすがに香里の方をちらりと見る人間もいる。この振動音は、人に不快感を与える特質を持っていると言っても過言ではないだろう。
 ちょっとした間抜けな状況に、香里は少々毒気を抜かれていた。
-水瀬名雪- 『090-39○○-○○○○。Jだよ』
 語尾が名雪らしいものになっていたことが、香里に小さな安心感を与えた。単純なデータの羅列が送られてきたなら、また無意味な衝動が沸き起こってきていたかもしれない。
 メモリに祐一を登録しながら、香里は改めて祐一個人のことを思い起こしていた。
 と言っても、祐一達とそれほど長い間離れていたわけではない。香里達の高校は二年と三年でクラスが全く変わらなかったために、受験直前までは名雪・祐一・北川といったメンバーと毎日のように顔を合わせていたのだ。休日でも、待ち合わせるにしろ偶然にしろ街中で会うのは珍しくなかった。
 栞の死について、祐一と多くを語った記憶はない。香里の内心を吐露した、あの夜の校舎のひととき以外には。そもそも、栞の死亡日がいつであったのかを祐一が把握しているのかも疑わしい。
 そう。栞の…
『栞がいなくなった日、いつだか覚えてる?』
 送信を選択する。唐突に沸き上がったイメージだったが、祐一の反応を見るには悪くない内容であると思えたのだ。
 そして、香里は食べかけのチーズバーガーと手つかずのブレンドコーヒーに目を落とす。栄養バランスをもう少し考えて食事するべきなのかもしれないが、新学期早々の慌ただしい雰囲気の中で外食に慣れてしまったのだ。料理は苦手でも嫌いでもなかったが、毎日となると話は違う。
 最初のうちは新しい生活にそれなりの期待感も抱いていたから、食事が多少貧相になってもあまり気にならなかった。だが、実際の大学生活そのものが見えてくると、現れるのは単なる情けない食生活だ。
 香里のクラスの人間は、かなり頻繁に集まって食事に行ったりしているようだった。大学のクラスというものが一体どれほどの意味を持っているか今ひとつ飲み込めなかったのだが、クラスが機能している姿を見せられれば、その中に入っていけない香里の姿は浮き彫りになっていく。
 なぜ、こんなにコミュニティに対する不信感を育ててしまったのだろうか。
 高校の時は人間関係に不安など抱いていなかったし、名雪をはじめとして友達がいた。積極的に人間関係を拡張するタイプではなかったが…つまり、「普通」の範疇に組み入れられていた。
 地方出身?真面目?物言い?
 違う。そんな表面的なものだけで片付けられる齟齬ではない。
 あるいは、この齟齬は高校の時から既に現れていたと考えてしまうべきなのかもしれない。既に構築済だった人間関係と、受験の忙しさが香里の変化を顕在化させていなかったというわけだ。
 どうだろうか?
 ヴーッ。
 香里の手の中で携帯が震える。
-相沢祐一- 『1月31日だ』
 形式的な挨拶も、新生活の様子を聞く言葉もない。シンプル。
 1月31日…。
 違う。栞が死を迎えた日では、絶対にない。
 そんな記憶間違いを祐一がしているはずもないし、冗談で滅茶苦茶な日を言うような状況でもない。
 であるなら。
 香里は必死で記憶をたどった。1/31。瞬間的に照合が済むような、香里の中に明確なイメージを結んでいる日付ではなかった。でも、何か引っかかる日なのだ。時期的には、栞が家の外に積極的に出ていった頃。いや、それが終わろうとしていた頃。
 いや…?
 香里の中にある予感が生まれる。
 3学期の期末テストは2月に入った次の日、要するに2/2からだったのを思い出せる。短期記憶に属するような内容も、香里は長期記憶にしてしまう癖があった。癖というより、脳の構造なのかもしれない。
 1日は当然のようにテスト勉強をしていたはず。その時…そう、毎日のように外出していた栞が、一日中家にいた。そこまで記憶が甦(よみがえ)ってくる。
 ひょっとすると、それ以来、病院に移るまで栞は家をほとんど出ていないのではないだろうか?
 つまり、1/31というのは。
 香里の中に、一つの確信が生まれた。
『相沢君は、それでいいの?』
 送信を選択する。
 香里は携帯を左手に持ち替えて、チーズバーガーの包みを手に取った。そして口に運び、無造作に一口かじる。元々冷め気味だったそれは、ますます温度を失って風味を失っていた。賞味期限5分というところだ。温め直すほどの価値があるかも疑わしい。
 かと言って、食べ残す気にもなれなかった。香里は機械的にチーズバーガーを口に入れ、ブレンドコーヒーで流し込む。元々相性がやや微妙な食べ合わせだけに、そんなスピードで食べれば無理が出る。全て食べ終わった時にはかなり気持ち悪くなっていた。
 それでも、食べ終わればこの店にいる意義は失われるのだ。香里は携帯をバッグに放り込み、それをつかんで席を立つ。逆の手でトレーを持ち上げ、決められた所まで運ぶ。コーヒーのフタとプラスチックの棒を先に捨て、面白くもない4コマ漫画が印刷された紙と一緒にチーズバーガーの包み紙とカップを捨てる。それからトレーを重ねる。
「恐れ入りますー」
 横を通った店員が、必要以上に語尾を伸ばして言った。これだけは、日本全国どこに行っても変わらない。


-相沢祐一- 『栞は俺にそうすることを求めていた。あの1週間を俺は壊そうと思っていないし、忘れようともしていない。栞を看取ったお前からすれば、楽』
-相沢祐一- 『してるように見えるかもな。でも、俺は栞の死を俺なりに受け止めてる。だから名雪ともつき合う事も、裏切りだと思わない。』
 128字に収まらないため、二回に分けて文が送られてきている。
『私には、わからないわね。私と相沢君のどちらが正しいのか。』
-相沢祐一- 『栞との関わり方が違ったんだから、どっちが正しいって問題じゃないだろ。ただ、俺は間違ったことをしているとは思っていない。』
『たぶん、相沢君が正しいのね。でも、最初聞いたときは栞を捨てて名雪っていう感じかと思ったから』
-相沢祐一- 『だから正しい正しくないじゃないって。俺は栞も名雪も、真剣に愛しているって言えるだけだ。』
『うらやましいわね。栞も名雪も。』
-相沢祐一- 『どうした?そっちの生活、辛いのか?』
『ううん、辛いっていうより、私の問題ね。ごめんなさい。』
-相沢祐一- 『こっちはみんな元気にしてるよ。連絡もしないで悪かったな。』
『みんなに、私は何とかやってるって伝えておいてね。おやすみなさい。』
-水瀬名雪- 『ごめん、香里。周りに誰も知っている人がいないのに一人暮らしするって、すごく大変だってわかってたはずなのに…。』
『こっちこそごめんなさい。相沢君や名雪に心配かけちゃったみたいね。』
-相沢祐一- 『おやすみ』
-水瀬名雪- 『そんなことないよ。夏には帰ってくるんだよね?そしたら、みんなで会おうよ。』
『そうね、帰れると思うわ。ありがとう。おやすみなさい。』
 香里は履歴を一通り眺め終わると、携帯を畳んで枕元に置いた。
 メールとメールの間の時間的なブランクは様々だったが、通して見てみれば簡単な内容だ。長い時間をかけて短い文でやり取りしているため、実際にやり取りしている時と後で見た時の感覚に大きなギャップがある。
 総じてみれば、自分がえらく惨めな存在に見えた。
 祐一も名雪も、香里の事を真剣に心配し、思ってくれているだろう。香里が帰省した時は、皆で出迎えてくれることだろう。
 それ以上に、自分は何を求めているのか?
 栞の記憶に関しては、祐一の言う通りだ。香里と栞の間の記憶は香里だけのものであって、共有を求める事に意味はない。受容にいかほどの痛みが伴おうと、香里自身が解決すべき問題なのだ。
 香里は寝転がったまま、ぎゅっと目をつむった。
 そこから、誰にも知られる事のない涙がつっと伝った。
 それが枕に吸い込まれていくまで、香里は放っておいた。涙が伝った跡が、頬に張り付いたかのように感じられた。
「私には、わからないわよ…」
 無意識のうちに、唇がそんな言葉を紡ぎだしていた。
 一人の部屋の暗闇に言葉が吸い込まれていく。
 香里は目を開ける事なく、ベッドの下に手を伸ばした。
 指先が、小さなポーチを探り当てる。それをベッドの下から引っ張り出して、手元に持ってくる。
 ポーチのチャックを開けると、中から長いコードのついた丸っこい物体が布団の上に転がった。香里はコードをポーチから全部引っぱり出す。コードの先には、箱状の物体がくっついていた。
 香里は、丸っこい部分と箱状の部分を両方つかんで、胸元の所まで引き寄せた。コードが引っかかって、ポーチがころんとベッドから転げ落ちる。香里が箱状のものを指先で探ると、小さく飛び出ている部分にぶつかる。香里の目は、やはり閉じられている。
 かちり。
 ヴー…
 振動音が響く。
 香里はローターのスイッチをシーツの上に落として、震える部分だけを指先でつかんだ。
 それをおもむろに口元に近づける。すると、香里は舌先を突き出してローターにあてがう。
 激しく振動するローターをうまく舐める事などできるはずもないのだが、香里は苦しそうな素振りすら見せつつローターを唾液で濡らしていった。舌には痛いほどの刺激が加わっているはずだ。
 やがてローターがべたべたに濡れると、香里はやっと舌をローターから離した。
「はぁ…はぁ…」
 息がかなり荒くなっている。ほんの30秒前には静かな呼吸であったと言うのに。
 香里は左手で、おざなりに自分の胸を揉んだ。愛撫と言えないほどの乱暴な手つきだ。どれだけ身体が高ぶっているのか、分かっている人間だからこそ出来るのだが。
 胸への愛撫はすぐに終わり、香里の左手はそのままパジャマのズボンの裾をショーツごとつかむ。ぐっと下ろすと、ゆったりとした生地のそれはずるりと剥けた。膝の辺りまで下ろしてから、右手のローターを股間に近づける。
 香里は、露わになった秘裂にぎゅっとローターを当てた。そして、上下に揺らしながらぐいぐいと押し当てていった。ローターの振動音は、苦しげな低い音に変わる。ヴィンヴィンという、波打ちくぐもった音がひっきりなしに生まれる。
 左手はいつの間にか左の胸へと戻り、愛撫を再開していた。先程のような、いい加減な愛撫ではない。パジャマと下着の下にある、乳房の先端をくりくりとつまむように弄(いじ)くる。決して小さくない香里の乳房であるから、ブラジャーをつけたままこんな事をすれば痛みすら生まれるほどに苦しい。だが香里はホックを外そうとしなかった。
 ローターはそれなりに縦長だったため、秘裂の中に埋(うず)める事は出来ない。押しつけた時に、圧力で秘裂が微かに開いてしまう程度だ。香里は腰を浮かせていたが、それは秘裂をローターに少しでも押しつけるためであるかのようにも見える。
 その状態をずっと続けてから、香里はローターの向きを変えて、秘裂に突き立てるようにした。ちょうど太くて小さいバイブのような感じだ。
 窮屈そうに秘裂に押し込まれたローターの間からは、どっと愛液があふれ出す。糸を引いてシーツの上に垂れるそれを、香里は気にもしていないようだった。闇雲に秘裂の中をかき回すと、振動音の中にぐちゅっという水音が混じる。
 香里は時折いやいやをするように頭を左右に振る。その度に、ウェーブがかった長い髪がさらさらと音を立てる。無論、顔には恍惚としたかのようなだらしない歓喜の色が浮かんでいたのだが。
 やがてひくっひくっと香里の腰が震え始めた。
 香里はローターを引き抜いて、直接クリトリスに当てる。
 その瞬間は香里の腰が引ける。だが、すぐに香里の腰はいやらしいグラインドを始める。まるでローターが愛おしい何かであるかのように。
 激烈な快楽に、香里の身体はそう長く耐える事は出来なかった。
「………!」
 ひゅくんひゅくんと香里の性器が痙攣する。香里は無意識のうちに、ローターをクリトリスから離して放り投げた。
 オルガスムスを感じながら、香里は指先でクリトリスに優しい刺激を与える。胸への刺激も続ける。絶頂は、あくまで頂点でしかないのだ。その後、一気に0に戻されるわけではないのだ。
 やがて痙攣は収まり、オルガスムスの波も消え去っていった。
 香里は思い出したかのようにローターのスイッチを探り当て、切る。
 後には、べったり濡れた指先でクリトリスをいじるくちゅくちゅという音だけが残った。
 …こんな習慣は、昔は無かった。
 かと言って、人間関係がうまく行かなくなってからついた習慣というわけでもない。だが、いつからか習慣になっていた。
 女性のオナニーは排泄欲に理由を求める事はできないし、香里は処女だからペニスを求めているという理由づけも無理であるように思えた。大体、香里は性的なことに大して興味をそれほど持っていなかったし、名雪などの友人も同じだった。
 無論、栞も…
 そこで、香里は小さな記憶にぶつかった。
 栞は、香里より先に処女を喪失している。
 それだけは、栞から聞いた事があった。どんな経緯(いきさつ)でそんな話になったのかは覚えていない。ただ、病院で二人きりになった時に聞いたのだ。
 淡々と、でも嬉しそうに話す栞と、顔を赤らめて恥ずかしがっていた自分の姿が思い起こされた。
『でも、気持ちよかったですよ』
『そ、そんなものかしらね』
『相手が祐一さんでしたし、私の身体を丁寧に触ってくれましたから』
『………』
『私が気持ち良くなってるって分かったら、祐一さん喜んでくれましたし』
『栞、誰か来るかも知れないし、ねぇ…』
『何かしてるんじゃないかなんて祐一さん言ってましたけどね』