栞(長編) その1


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 相沢祐一は両親の仕事の都合で、雪国にある親戚の家で暮らす事となる。子供の頃はよく訪れていた街だったが、今の祐一にとってこの街は7年ぶりだった。
 叔母である水瀬秋子と従姉妹の水瀬名雪と共に、祐一は新しい生活をスタートさせる。その中で、祐一は名雪の友人である美坂香里や、クラスメイトの北川潤とも友人となっていった。また、7年前にこの街で会ったことのある少女、月宮あゆとも再会する。
 やがて、祐一は病気で学校を長く休んでいるという少女、美坂栞と出会う事になる。そう、香里の妹である。最初は病名を誤魔化していた栞の病は、実際には致命的なものであった。
 香里は祐一に対し、妹の存在を否定する。香里が現実逃避をする中、祐一は栞と恋人関係を築いた。死に向かう栞と、想い出を作っていくため。その関係は1週間。医者が「もう迎えることは出来ない」と判断していた、次の栞の誕生日までだった。

 どんっ。
「うぉっ」
 校門を抜けた瞬間、突然後ろから来た衝撃。祐一が振り向くと、
「嬉しかったので、体当たりしちゃいました」
「栞…」
「今日から、私も学業に励みますっ」
 顔一杯に笑みを浮かべた栞の姿があった。
 そうして始まった一週間。


 それから、校門から昇降口までの短い道のりの中、二人の会話が始まる。
「制服とか、しまい込んでいた皺が寄っていたりしなかったのか?ひょっとして、クリーニングにでも出したのか?」
「そんな事ないです。部屋の中にハンガーで掛けておいて、毎日手入れしてたんですよ」
「鞄は?」
「鞄の方はずっとしまっていたんですけど、時々取り出して綺麗にしておいたんです。やっぱり、制服が部屋にあるってのが一番大事だったんですよ」
「マニアのオヤジみたいだな」
「そんなこと言う人、嫌いです」
 栞は本気で嫌そうな表情を浮かべていた。
「まあ冗談だけどな。その制服を、今日着てきたわけか…」
「はい。ブラウスも、ハンカチも、お母さんが丁寧にアイロンを掛けてくれました」
 栞はわざわざスカートのポケットから真っ白なハンカチを取り出して見せる。
「今日はポケットに薬を入れてないのか?」
 ハンカチを取り出すときに、物を選り分けたりしている素振りがなかったのだ。
「ええ。いつものスカートなら入るんですけどね」
 ちょっと苦笑。
「あれは近未来からタイムワープしてきたスカートだからな」
「そんなわけないです」
「制服のスカートでは、そうもいかないか」
「だから、違います」
「残念だったな、栞」
「でも。この制服は、すごく好きです…自分の部屋に現物が置いてあるのに、憧れのものでしかなかったんですから…」
 栞がちょっと言葉をうわずらせる。
「アイドルの写真とか、ポスターみたいで…目の前にあるのに、さわれるのに、でも私には届かない服だったんです」
「そうか」
「今日この制服を着たとき、どきどきしたんです。ひょっとして、破けたり壊れたりしちゃうんじゃないかって」
 祐一には、栞が恐る恐る制服の袖に腕を通している姿がありありと想像できた。
「でも、大丈夫でした。着るだけで、別の人になったみたいな気分でした。びしっとしていて、私のことを守ってくれるみたいな感じで」
「そうかもしれないな」
「あはは…これじゃ、私本当に制服マニアですね」
 栞が微笑む。二人は、ちょうど昇降口のところまで来ていた。
「じゃあ、祐一さん」
「昼はどうするんだ?栞」
「えっと、学食で食べます」
「じゃあ、昼休みになったらな」
「はい、祐一さん」
 そして、栞は一年生の下駄箱の方に向かっていく。
 祐一が上履きに履き替えて廊下に出ると、栞もちょうど廊下に出てきたところだった。
 すぐに栞は気づいて、祐一に軽く手を振ってから一年生の教室の方へ歩いていった。その上履きも、やはり真っ白。履き慣れていない、まだ固い上履きであるはずなのに、不思議と栞の足にぴったりと合っているように見えた。栞の足取りも、この上なく軽そうであると同時に、床をしっかりと踏みしめたものだった。
 栞の姿が消えるまで、祐一は後ろ姿を見つめていた。栞は一度も振り向かず、一年生の教室の方へ真っ直ぐに向かっていった。
 その祐一の視界の隅を横切っていく人間がいる。
「香里」
「…相沢君」
 つい今気づいたかのような声で言う。
「おはよう」
 香里は、非常に疲れているといった素振りで言った。栞と祐一がここまで一緒に歩いてきたのを、見ていたのは間違いないだろう。
 放っておくとそのまま通り過ぎてしまいそうな香里。祐一は強引に歩み方を合わせていた。
 登校時間もたけなわだ。混雑というほどではないが、周りには生徒が数多くいる。その生徒達をかき分けていくかのような速いスピードで二人は歩いていった。特に何か話すわけではない。視線すら合わなかった。
「なぁ、香里」
 階段まで来たところで、祐一が声をかける。
「何?」
「…おはよう」
 香里は一瞬表情を曇らせてから、階段の上の方、自分の正面に視線を戻した。
「私は、さっき言ったわ…」
「そうだな」
 また、黙々と急ぎ足で階段を上がっていく。上履きの乾いたステップが、周りの生徒の喧噪に紛れていく。誰も二人に気を配ろうとはしなかった。
 結局、二人は教室の直前まで沈黙の歩みを続けた。肩を並べたままに。
 さすがにその状態で教室に入る気は無かったのか、祐一がするっと位置関係をずらす。香里が、先に教室に入っていく形になった。
「なぁ、香里」
「何?」
 先ほどと全く同じやり取り。
「栞、今日は学校に、勉強しに来ているんだよな」
「………」
 香里はドアに掛けた手の動きを止めて、俯(うつむ)く。
「何度言わせれば気が済むの…相沢君」
 がら…
 寂しい音を立てて引き戸のドアを開ける。教室の中からクラスメイト達の話し声が響いた。
「…済まない」
 祐一は香里の背中に声を掛ける。ごくごく短い間だったが、香里が硬直したかのように見えた。
 開け放されたドアの前、祐一は憂鬱そうな表情を浮かべて立ちつくす。
「あ、祐一ー」
 はっはっ、はっはっ。
「間に合ったよ…」
 そこに、早歩きで祐一の方に向かってくる名雪の姿があった。廊下を走らない辺りは律儀なのだが、そこまでは全力でダッシュしてきたものと見える。
「今日は割合余裕があるみたいだな」
「うん…歩いてきていたんだけど、途中で香里が道の先の方にいるのが見えたから」
「追いかけてきたのか?」
「校門のあたりで、追い付きそうになったんだよ…」
「それで?」
「でも、なんだかすごい真剣な目で祐一達の事を見ていたから」
 名雪は心配そうな表情だったが、同時に祐一から事情を聞きたがってもいるようだった。
「その後で香里と話した」
 祐一は、落ち着いた口調で言う。
「なんて?」
「大したことない話だ」
「気になるよ…」
「だめだ」
「…うん」
 名雪は納得していないようだったが、言葉の上では素直に従った。
「さっさと教室入るぞ」
 祐一が促すが、名雪は動かない。
「ねぇ、祐一」
「なんだよ」
「あの子の事?」
 薄々は感づいているようだった。いや、状況を考えればそういう結論に達しない方がおかしい。
「俺がなんとかするさ」
「私は、香里の友達だよ…」
「それだけじゃどうにもなんない部分もあるんだよ」
「どうしても、私には詳しい事を教えてくれないの?」
「だから、だめだ。どうしてもって言うんだったら、香里をどこか遊びに連れてってやるとか、そういう気の回し方をしてくれ」
「うー…わかったよ」
 ようやく、名雪が教室に入ろうとする。
「でも、何かあったら、いつでも私に相談してね」
「わかった」
 二人が教室に入っていくと、窓際の席に腰掛けた香里がかすかに視線を向けた。
 だが近づいていくと、香里はすぐに視線を窓の外に向けてしまった。


「で、だ…」
 祐一は言いながら素早く空いている席を探す。同時に足も動いていた。
「祐一さん、速いですっ」
「ついてこないと、迷子になるぞ」
「学食で迷子になるわけないです…わっ」
 言いながら、栞は他人の運んでいるトレーにぶつかりそうになっていた。その上にはカレーが乗っている。
「栞、制服カレーだらけになるぞ」
「そんな悲しいこと、言わないでください」
「大げさだな」
「そんな事になったら大変です、5回くらい洗濯しないと落ちなくなっちゃいます」
「丁寧に洗えば1回で十分だろ」
「匂いがついちゃいます」
「丁寧に洗えばって言っただろ」
「気分の問題です」
「矛盾してるぞ、栞」
「そんな事言う人、嫌いです」
「よし栞、ここだ」
 会話しながらどうやって探していたのか、祐一は長いテーブルの一番端にあたる席を二つキープしていた。
「この席を守っていてくれ」
「はい、死守します」
 栞はそう言ってちょこんと椅子に座り、横の椅子に自分の荷物を置く。
「そりゃ頼もしいな。で、何を食う?」
「何にしましょう」
「そうか、メニューがわからないか…」
 祐一は大体学食のメニューを把握できるようになっていたが、全て説明するとなると面倒臭い。
「でも、メニューなんて見てたら席確保できなかったしな…盲点だった」
「祐一さんと同じものでいいですよ」
「そうか?俺はカレーにしようかと思っていたんだけど」
「そんな事言う人、嫌いです」
「……唐突すぎるぞ」
「私がさっき必死でカレーが嫌いだって事をアピールしていたのに、なんで無視するんですかっ」
 栞は悲しそうな目で訴えた。
「あれは洗濯の話だろ?」
「普通に聞けば、遠回しに辛い物が苦手だって事を言っているんだってわかるはずです」
「じゃあ、カレーが制服に掛かる話を聞いて、あ、こいつはわさびが食べられないんだなって思う奴いるか?」
「それは詭弁です」
「栞、わさび好きか?」
「見るのも嫌です」
「ほら」
「ほら、じゃないです」
「と、貴重な時間をこんな所でロスしているわけにはいかないな…じゃあ、何だったら食べられるんだ?」
「辛くも苦くも酸っぱくもないものがいいです」
「栞、ひょっとして味覚も子供なんじゃないのか?」
「『も』ってなんですか!」
 栞は頬を膨らませて怒った。
「わーった。適当なもの買ってくる」
「祐一さん」
「…アイスも買ってくる」
「はい、お願いします」
 にこにこと笑みを浮かべて、栞は祐一を見送った。
 結局、祐一が選んだのは山菜そばだった。
 なぜ山菜なのかは謎だが、きつねではわびしすぎるし、天ぷらや肉入りはどうも栞のイメージにそぐわなかったのだ。
「ということで、山菜そばにした」
「…そんなものも売っているんですね」
 少し苦笑しながら、栞は祐一を迎える。栞は荷物を床に降ろして、キープしていた席に移る。祐一はテーブルにトレーを置いて、栞が元いた席に座った。
「祐一さん」
「なんだ?」
「誤魔化さないでください」
「ちゃんと二つそばが並んでいるじゃないか」
「そのわざとらしく後ろに回された手はなんなんですかっ」
「腰が痛いんだ」
「面白くないです」
「まぁ、お楽しみは食べた後にとっておくもんだろ?」
「気になって食べれません」
 栞が素早く祐一の背中に手を回そうとする。
「全然届いていないぞ」
「祐一さん、早く出してください」
 ばたばた。
 栞の手は、祐一の腰の辺りまでしか届かなかった。
「だって、持っていないんだから仕方ないだろ」
「あ、あれ?」
 栞が不思議そうな声を上げる。確かに祐一が差し伸べた両手には何もなかった。
「ま、まさか祐一さん…」
「栞…」
 祐一が妙に悲痛な声を上げる。
「そ、そんな人嫌いですっ!」
 栞が目を覆った。
「…冗談だって」
 ぱっ。
 目を覆っていた手がなくなる。
 祐一は、周りにいる人間がみんな食事か無駄話に気を取られているのを見て、ほっとした。
「ロッチの躁(ヴァニラ味)…祐一さん、さすがですね」
「あのなぁ」
「でも、どこに隠していたんですか?」
「秘密」
「教えてください」
「俺も四次元の使い方を覚えたんだ」
「そんなもの、私は使った覚えはありません」
「それは嘘だぞ」
「違います」
 言いながら、栞は祐一の手から一つアイスカップを取って自分の前のテーブルに置いた。
「じゃあ、いただきましょう」
 小学校の給食のような号令。
「いただきます」
 祐一もそれに合わせて言うと、山菜そばをすすり始めた。
「おいしいですね」
「しまった」
「なんですか?」
「七味を…」
「祐一さんっ」
「…まだどうするか言っていないぞ」
「『どうする』で、『どうした』んじゃないんですね?じゃあいいです」
 栞はふぅふぅと息を吹きかけながらそばを食べていく。
 向かい合っての食事ではないのでやや話しにくかったが、それでも二人は楽しそうな会話を続けていた。
「やっぱり、熱い物を食べた後のアイスは格別ですよね」
「単に舌が痺れるだけだと思うが…」
「そんなこと無いです。冷たさがより味わい深く感じられるんです」
「適当に言っていないか?」
「アイスに関しては、祐一さんより私の方が詳しいと思います」
「でもなぁ…」
 雪の降る中でアイスに舌鼓を打つ味覚と温感を信用するのも、やや気が引けた。
「実際にやってみればわかりますよ」
 栞はかなり急いでそばをすすっていた。きめ細かく色素の薄い肌は桃色に染まっている。身体が温まると、すぐに分かってしまうのだ。
「あんまり急いで食わなくても大丈夫だぞ」
「でも、アイスが溶けてしまいますから…」
「少しくらい溶けてもいいだろ」
「溶け始めちゃったら、アイスじゃないです」
「でも、カチカチじゃ食べにくいだろ」
「ちょうどいいバランスがあるんです」
「うーん…」
「固いアイスなら柔らかくなるのを待てますけど、柔らかいアイスが溶けちゃったら二度と元には戻らないんですよ」
 栞は、ぴっと指を一本立てた。
「"It is no use crying over split milk"です」
「…栞、ひょっとして休んでいる間も勉強とかしてたのか?」
「あんまりしていないです、実は、今日英語の授業で教わったんです…」
 あはは、と栞は笑った。
「…そうか。よかったな」
「はい。よかったです」
 栞は嬉しそうに言って、そばをすすった。
 祐一の方はもう食べ終わっていた。栞が急いで食べていると言っても、それは栞のペースに照らしての話だ。
「ちょっと待っててくださいね…」
「だから、別に急がなくていいって」
「アイス、一緒に食べましょうね」
「ああ。で、栞、今日の放課後空いてるな?」
「はい、もちろん」
「じゃあ、どっか行くか」
「はい」
 ごく自然に、何ヶ月も何年も前からそうして来たように、栞は答える。
「6限終わったら、校門のところで」
「わかりました。競争です」
「競争なのか…」
「遅れないでくださいね」
「ああ、約束する」


「速すぎますっ、祐一さん!」
「競争って言ったのは栞だぞ…」
 だだだっ。
 あっという間に栞の横を追い抜きながら、祐一が言う。
「ひ、ひどいですっ、女の子に対するっ、気遣いってものがっ、感じられませんっ」
「栞、もう勝負はついてるんだから、ゆっくり来いよ」
 言いながら祐一は校門からそそくさと出ていった。周囲の視線がそれなりに痛かったのだ。
「ま、まってくださいっ」
 呼吸を荒げながら、栞は祐一を追った。校門の前の道から一本入った路地で、やっと追い付く。
「よぉ、お疲れ」
 はぁ、はぁ…
 栞は膝に手をついて息を整えていた。
「びょ、病人に、させることじゃ、ないですっ」
「競争なんて言い出す人間が、心臓を悪くしていることもないだろ」
「ひょっとしたら、そうかもしれないじゃないですか。心臓病のスポーツ選手の美少年とかっ」
「それはマンガの読み過ぎだと思うぞ…」
「私、マンガなんてほとんど読んだことありません」
 どうやら、栞は何とか息を落ち着けたようだ。
「ついでに、美少年ってつく意味はどこにあるんだ?」
「決まり文句です」
「そうか?」
「乙女のデリカシーです」
「微妙に違う気がするが…」
「男の人には、わからないんです」
「で、心臓病なのか?」
「忘れました」
 さっぱりとした顔で、栞が言う。
「とにかく、祐一さんっ。明日はこうはいかないです。私にも秘策があります」
「なんだよ、秘策って…」
「秘密だから、秘策なんです」
「そりゃ、そうだな」
「聞いて驚かないでくださいね」
「なんだ、今言うんじゃないか」
「言いませんっ。明日、私の方が勝ったら教えてあげます」
「ほほぉ、そうか」
 祐一は腕組みをして、あさっての方向を向きながら言う。
「そんな事考える人、嫌いです」
「…器用だな、栞」
「何を考えているかくらい、私にもわかります」
「いや、どこに行こうかと思ってな」
「嘘です…でも、どこに行きましょう?」
「俺が知っている所って言うと、限られているが」
「どこですか?」
「商店街。学校。それから、居候先の家」
 祐一は頭をこんこんと叩きながら考える。
「…あとは、栞に教えてもらった公園」
「そうですねぇ」
「どう考えても、商店街しか選択肢がない気がするが」
「じゃあ、歩きながら考えてみましょう」
「商店街をか?」
「はい。歩いているうちに、何かいいところが思いつくかもしれませんし」
「そんな都合良く見つかるもんかな…ま、商店街を普通に歩くと思えばいいか」
「そうしましょう」
 祐一と栞は路地を歩き出す。人の視線を避けるために祐一が適当に入った路地だったが、幸い商店街への方向として間違ってはいなかった。
「なぁ、ところで栞」
「なんですか?」
「あの校門での競争、楽しかったか?」
「はい。祐一さんがもう少し優しくしてくれれば」
「…そうか」
「だから、明日も競争です。絶対に負けません」
 祐一は、校門で感じた周囲の視線を思い出して少し鬱になった。知り合いがいなかったから多少はマシだったが、明日も会わないとは限らない。
「ということで、明日は秘策が発動します」
「ああ…」
 相槌か悲嘆か、祐一が声を上げる。
 しかし、栞の楽しさに偽りはまるでないようだった。
「…安いもんだよな」
「なんですか?」
「なんでもない」
「人に聞こえるひとりごとは、人に聞いてもらいたくて言っているものですよ」
「そんな事はない。断じてそんな事はないぞ」
「ムキになって否定をするのは、肯定をしているのと同じことですよ」
「なまいきなっ、栞」
 祐一は栞のショートカットをくしゃくしゃとかき回す。
「わーっ、やめてください、祐一さん」
 栞は慌てて頭を振ってから、手ぐしを入れる。それだけで髪型は元通りに戻った。
「ひどいです、祐一さん…女の子の髪の毛を乱暴にさわるなんて」
「でも、すぐに戻ったじゃないか」
「この髪の毛は自慢ですから」
「健康的な髪なんだな」
 今度は一房(ひとふさ)だけつまんで、祐一は髪の感触を楽しむ。
「あ、やめてください…」
「いいだろ。すぐ元に戻るんだし」
 栞は周りを見回して、誰もいない事を確認した。そして恥ずかしそうに俯(うつむ)く。
「あの、祐一さん…」
「いつまで、さわっているんですか?」
 少しだけ視線を上目にして、栞は訊(たず)ねる。
「俺が、飽きるまで」
「別に…いいですけど」
 そろそろ狭い路地も終わりそうだった。路地を抜けたところの道を、車が一台通り過ぎていく。
「きゃっ…」
「大丈夫だって、車運転しながら路地をのぞきこみやしないだろ」
「子供が窓から見ていたかもしれないじゃないですか」
「助手席にも後ろのシートにも、誰も乗ってなかったぞ」
「でも…」
「あ、でもひょっとしたら、あの車、誰も乗っていなかったかもな」
「何の話ですかっ」
「こういう話、苦手なのか?」
「そんなわけないです、祐一さん嫌いですっ」
 栞は髪の毛をさわっている祐一の手から離れた。そしてまた手ぐしを入れる。
「やっぱり、そうなんじゃないか」
「根拠がないですっ」
「ムキになって否定をするのは、肯定をしているのと同じことですよ」
「口調まで真似しないでくださいっ」
「可愛いな、栞」
「そんな事言う人、嫌いですっ」
「しかしまぁ、綺麗な髪してるよな」
「………」
 栞はぷーっと頬を膨らませる。
 だが、すぐに機嫌を取り戻したようで、
「髪の毛は、普通の女の子よりも、きっとずっと健康なんだと思うんです…」
 ため息を吐き出すような言葉だった。
「…そうか」
「神様が、可哀想な私にプレゼントしてくれたんですね」
「あのな」
「冗談です」
 二人は、路地を抜けていた。


「しかし、商店街じゃ食う場所がないよな」
「そうでしたね…」
 二人はアイスクリームを抱えて商店街をうろうろしていた。
「となると、俺の知っている場所では…」
「学校か、祐一さんの家か、公園ですね」
 栞が言葉をつなぐ。
「どこがいい?」
「祐一さんの家がいいです」
「俺の家?」
「はい。祐一さんが住んでいる家を、見てみたいです」
「って言っても、居候している家なんだがな…」
 ややつまらなさそうに祐一は言った。
「でも、祐一さんが毎日を暮らしている家である事は間違いないですよ」
「そうだな」
「祐一さん、変な事考えてませんよね?」
「………」
 祐一は360度方向転換をしてから、
「………」
 歩き出す。
「…何をやってるんですかっ!」
「…いや、めまいがしたんだ」
 祐一はわざとらしく片方の手で頭を抱えた。
「立ちくらみがした時に、そんな回転する人いませんっ」
「重症かもな」
「しかも、180度回転した後に、躊躇があってからもう一度180度回転してましたよっ」
 一気に栞はまくし立てる。
「詳しい観察だな」
「誰でもわかります」
 言う栞の横を、祐一がすり抜ける。
「ほら、アイスだぞ」
 ひらひらと袋を見せびらかす。
「私は動物じゃないです」
 そう言いながらも、栞は小走りに走って祐一の横に並んだ。
「栞を動物に例えると…」
「例えなくていいですっ」
 会話、会話。
 …と、そうしながらいつの間にか二人は水瀬家の前についていた。
「ここが祐一さんの住んでいる家ですか…」
「ああ。言ったとおり、居候先だけどな」
 祐一は「水瀬」の表札を指さす。
「親戚の方の家ですか?」
「そう。おばさんと、いとこと」
「今、いらっしゃいますかね」
 やや緊張した面持ちで栞が言う。
「おばさんの方がいるんじゃないかな」
 祐一は玄関のドアに向かう。栞は、その陰に隠れるようにしてついていった。
 かち。がちゃっ。
 カギを使ってドアを開ける。
 祐一が靴を脱いで上がると、ちょうどリビングのドアが開いた。
「…あら?」
 秋子が顔を出している。
「お帰りなさい、祐一さん」
「ただいま。ちょっと今、お客さん来ているんだけど…」
 祐一は身体の位置をずらす。緊張した面持ちでかしこまっている栞の姿が見えた。
「おじゃましています」
 栞はぺこりと頭を下げる。
「はじめまして…美坂栞と言います」
 ややぎごちない口調。
「栞ちゃんね」
 秋子はいつものように微笑んだ。
「はい」
「何もない家ですけど、ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます」
 少しほっとしたような表情で、栞が言う。
「それじゃ秋子さん、俺の部屋にいます」
 祐一は栞を促した。
 栞は出来るだけ上品に見えるように靴を脱いでいるようだった。それをきちんと揃えて玄関に置く。
「栞ちゃん」
「あ、はい、なんですか?」
 玄関に二人が上がろうとした時、秋子が声を掛けた。
「もし祐一さんに変な事をされそうになったら、悲鳴を上げてくださいね」
「はい、分かっています」
 栞は妙に嬉しそうに答えた。
「………」
 一方の祐一には、二人のひどい会話内容だけしか聞こえなかった。
「…栞」
 2階まで上がってから、祐一が憮然とした声で言う。
「用心に越した事はないです」
「本人の前で言うことか?」
「本人の前で言うからこそ、効果があるんですよ」
「…はぁ」
 祐一は諦めたようなため息をついて、自分の部屋のドアを開ける。
「わ。ここが祐一さんの部屋ですか」
「散らかってないだろ?」
「私の部屋と同じくらいです」
 栞はきょろきょろと部屋の中を見回す。
「それはすごいな」
「掃除、好きなんです」
「何となく分かるような気がするな」
「そうですか?」
「まぁ、俺の場合は引っ越しして間がないから、荷物が少ないってだけなんだが…」
 しかも、掃除機やらは秋子が済ましてくれている。
 祐一は、部屋の真ん中にアイスクリームの袋を置いた。
「よく考えると、二人入った時に座るとこないな。この部屋」
「床の上でいいですよ」
 そう言って、栞はベッドにもたれるように正座した。膝から下が、ぺったりと冷え切った床にくっついている。
「寒いだろ」
「いえ、雪の上よりは暖かいですから」
「比較の対象が間違ってるだろ」
「でも、雪の上に座るのは好きです」
「頼むから、ベッドの上にしといてくれ」
 少しだけ祐一が語気を強めた。
「…はい、わかりました」
 栞は素直に従う。
 祐一は自分の机の椅子に座ろうとしたが、栞とあまりに距離がある事に気づく。
「俺もそっち行くか」
 言うと、アイスクリームの袋をつかんでベッドに向かった。そして栞の横にどんと座る。
「わっ…もっと、ゆっくり座ってください」
「俺の部屋だからな。いつもの癖で」
「そんな乱暴な人、嫌いです」
「そんな事言っていると、アイスは食わせないぞ」
 祐一はアイスの袋を高く持ち上げた。
「人道に対する犯罪です」
 栞は真剣な目で言う。
「大げさすぎるぞ…」
「人類の産み出した発明の中で、最悪のものです」
「何がだよ…」
「…何がでしょうね」
 栞は笑いながら、袋の中から自分の分のアイスクリームを取り出そうとした。
「なぁ、栞」
「はい?」
 栞は袋の中に手を入れたまま、答える。
「前から思ってたんだけどさ」
 祐一の目に、少しの真剣さが宿っていた。
「はい」
「栞って、昔からそんなによくしゃべってたのか?」
「そうですね…」
 栞は袋から手を出して、そのまま指を自分の口元に当てる。
「身体の調子がよくて、学校に行っていた頃は無口だって言われてました」
「いつ頃だ?」
「中学までです。でも、高校に入ってから位ですけど、よくしゃべるって言われるようになりました」
「…あのさ」
 栞の答えからややブランクを置いて、祐一が言う。
「はい」
「あのさぁ…栞」
「なんですか?」
「あの…」
「はい」
 祐一は、意を決したかのように言う。
「栞、ひょっとしてしゃべっていないと不安になったりするか?」
「え?」
 栞が、わずかに表情を変える。
「いや、俺の直感だからわかんないんだけど。栞見てるとさ。なんだか、黙っているのが不安なんじゃないかって…なんか、そう感じちゃうんだよ」
「………」
 返事は、なかった。
「違うっていうんならいいし、別に気にする必要も…」
 長い沈黙が下りる。
 祐一はやや気まずそうな表情を浮かべつつも、栞のことをじっと見つめていた。
「私は…」
 ぽつりと栞が言う。
「身体が弱くて、友達もほとんどいなくて…っていう、人間です」
 ゆっくりとした、一語一語を噛みしめるかのような言葉。
 祐一は何も答えず、ただ真剣な眼差しになる事を努力した。
「私から…言葉を取って、残るもの、って…」
 悲しそうな瞳だったが、涙が生まれる様子はなかった。
「一体、なんなんですか?」
 栞はじっと祐一を見る。
「この身体と、ほんの少しの人間関係…そんなものに、意味がありますか?」
「栞」
 祐一は、すっと栞に自らの身体を寄せた。
「ふぅっ…」
 栞は床を見つめて息を吐く。
「ひどいです、こんな事言わせるなんて…」
「栞…」
「こんな事、言っちゃったら…私…」
 栞が目を細めて、ことんと祐一にしなだれかかる。頬が紅に染まっていた。
 ストールが、するりと床に滑り落ちる。
「この身体と、人間関係を大切なものだって信じさせてほしいって…」
 栞は細めていた目を、ふっと閉じた。
「祐一さんに、お願いしなきゃならなくなるじゃないですか…」
「栞」
 祐一は、栞の身体の温かな感触と、栞の言葉の内容を噛みしめていた。
 その二つの要素の帰結として、祐一はそっと栞のほのかな膨らみに手を添えていった。その手を添えるだけではなく、ゆるりと圧力を加えてみた。
「ひどいプレイボーイです…祐一さんって」
 ささやくように言う。
「私、何をして欲しいなんて一言も言っていないじゃないですか…」
 祐一の手の動きが止まる。そして祐一は、困惑したかのような、あるいは、辛そうな表情を浮かべる。
「最初から、こうなるのを期待していたんですね」
「違う…栞、それは違うぞ」
「そうですね…期待していたってのは違うと思います…でも…だから、ひどいプレイボーイなんですよ…」
 栞が身体から力を抜いた。祐一が胸から手を動かして肩を押すと、栞の身体はベッドにゆっくり倒れていく。
「秋子さん、洞察力が鋭い人なんですね」
「…あぁ」
 祐一は深く同意した。
 そして、スカートのホックを外す。
「あっ」
 栞が、怖がっているかのような声を上げる。
「そんな事…する人…」
「嫌か?」
「嫌なわけ…ないです…」
 栞は、祐一から視線をそらして言った。
「嫌だったら、悲鳴を上げますから…」
「……」
 祐一は、ゆっくりとスカートを降ろしていく。その下には、清楚な白のコットンショーツがつつしまやかに秘部を包んでいた。
「恥ずか…しいです…」
 ぎゅっと栞が足を閉じる。 
 祐一は、その寄せられた内股から指を這い上げていった。
「ひっ…」
 栞の息をのむ声。祐一は少し躊躇したが、構わずショーツに手を掛けた。
 おずおずとずらしていくと、ほとんど割れ目だけに等しい栞の性器が、少しずつ少しずつ露わになっていく。
「い、いやらしいです…祐一さんっ」
 祐一は別に淫靡さを狙ったわけではなく、単に緊張しているだけだった。
 それでも、栞の性器が完全に見えるようになってしまうと、熱い欲望がむらむらと膨れ上がってくる。栞の姿は、上半身は制服をしっかりと着ており、下半身はソックスだけという極めてアンバランスな状態だった。
 壊れてしまいそうに繊細な部分に、祐一は恐る恐るだが指を伸ばしていく。
「あ…あっ」
 栞が、自分でもほとんど触れたことのないだろう部分。不安そうな声だった。
 祐一は何も考えずに、秘裂の上を丁寧になで回す。
「く、くすぐったいです…」
「そ、そうか」
 戸惑いながら、祐一は秘裂をわずかに広げた。そこには、ピンク色の、肉の色がある。不用意に触れれば、傷つけてしまいそうだった。
「祐一さん…私なら、構いません」
「栞」
「受け入れて、それで祐一さんが気持ちよくなってくれるのなら…」
 熱に浮かされたような顔で栞は言った。
「ごめんな」
 祐一は、手早く制服のズボンを脱ぎ捨てる。そして、トランクスの下から隆起した自らのペニスを取り出す。
「栞、目閉じてくれるか?」
「はい…」
 栞が言葉に従ったのを見ると、祐一は自らのペニスを秘裂の中に割り入れる。そして、知識のページを必死に繰って、下の方に移動させていく。
「し、栞」
「はい」
「その場所になったら、教えてくれ…」
「わかりました」
 くすっと笑われる。祐一は相当惨めな気持ちになった。
「もう少し、下です…」
「ここか?」
「あ、行きすぎました」
「わ、悪い」
 祐一がペニスをやや上に戻してぐっと腰を押すと、果たして先端が埋まりそうな感触があった。
「あ…」
「いくぞ、栞…」
「はい、来て下さい…」
 祐一は、慎重に自らの身体を栞の中に沈めていく。
「あ…くっ…」
 とても入りそうになさそうだった栞のそこは、力任せに祐一が腰を押し込むと、少しずつペニスを受け入れていった。とてつもなく狭く、圧迫感は尋常ではない。逆に考えれば、栞には非常に大きな痛みをもたらしているであろう事が想像できた。
「い…いっ」
 栞がぎゅっとベッドのシーツを掴む。
「も、もう少しだから…」
「は、はい、祐一さんっ」
 祐一は最後の力を使って、ぐいとペニスを押し込む。
「ああーっ…」
 悲痛な声。そして祐一には、この上無く心地よい感触が感じられた。ほとんどペニスの根元まで、熱くややぬめった感触に包まれているのだ。
「痛いだろ…ごめんな」
「ゆ、祐一さん、キスしてください…痛いのが…紛れると思いますから…」
「わかった」
 祐一は何とか体勢を動かして、栞の唇に口づける。
「ん、んー」
 これまで二人がしてきたのような軽いキスではない。互いの唇を求めるキスだ。どちらも不器用だったが、懸命に唇を動かして互いの想いを感じあった。舌を動かすほどの余裕はなかったが、その行為は二人の心地を熱くしていく。
 ぐっ…ず、ずっ
「んはっ」
 祐一がわずかにペニスを動かすと、栞がキスをやめて苦しそうな声を上げた。
「速く、終わらせるから…我慢してくれ」
「あくっ、あ、つっ…」
 栞は大丈夫だという言葉を言う事もできない。眉をしかめ、シーツをますます強く掴んで懸命に耐える。
 祐一はそれでも、速く終わらせた方が苦痛が少ないだろうと考え、必死でペニスを抽送させた。あまり深く抜き差しすると抜けてしまいそうだったので、一番奥のところでぐりぐり動かしていただけだったが。
 それでも、単純に狭いことによる締め付けで、祐一も限界を迎える。
「しおりっ!」
 ひときわ強く突いた瞬間、祐一は栞の奥深くに自らの欲望を放った。びゅくびゅく…と、信じられないほどの量が送り込まれていく。
「あ…はぁっ…祐一さんのが…熱いのが…わかります…」
 目に涙をにじませた栞が、つぶやいた。
 脈動が収まると、祐一はペニスを抜く。桜色の液体が、とろっとシーツに垂れていった。
「栞…ごめんな」
「そんな事言う人、嫌いです…」
「…そうだな。『悪かった』。これは、今の俺のセリフに謝ったんだ」
「はい」
 すうっ、と祐一は息を吸い込んだ。
「栞、愛している…」
「私も、祐一さんを愛しています」
「これから何があっても、栞がどんな身体になっても、俺だけしか栞を知っている人間がいなくなっても、俺は栞を愛している」
「はい…」
 栞が、行為の後で上がった息を吐き出しながら、この上なく嬉しそうな表情で、言った。
 そして、二人は行為の後始末をした後で、深く深く抱きしめあった。


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