佐祐理[自我]


 …ちゃ、………ちゃ…
 思い出したかのような頻度で、ナイフとフォークの音が立つ。
 それに合わせたかのような、クラッシックの静かな音楽。盛り上がりも何もない、素晴らしく存在感の欠けた音楽だった。作曲者が何を考えてこんな曲を作ったのか、全然分からない。でも、作るときにはたぶん何かを考えていたのだろう。
「佐祐理さん」
「はい?」
「どう?ここの」
 佐祐理に向かい座っている男が聞いた。
 年格好は佐祐理とあまり変わらないように見える。軽く色を入れた髪に、なで肩気味で細身の体。顔は、あまり特徴がないが、それなりに整っていると言っていいだろう。
 主張のない顔だけに、ブランドのスーツが映えている。もちろん、アクの強い顔にしか合わないブランドのスーツもあるが、男が着ているのはおとなしめ、上品気味といった色合いの強いスーツだ。誰が選んだのかは知らないが、そのスーツが男の雰囲気全体を引き締めて、多少は出来る男という印象を与えていた。
「おいしいですよ、今日も」
 佐祐理が笑顔を浮かべて言う。
「そう?良かった」
 男はそれ以上聞こうとしなかった。「どこが?」という問いを続ける事はない。確かに、佐祐理の返事というのは妙に細かい詮索をはねつける力を持っているのだが。恐らく、どんな返事をする時にも佐祐理が底抜けに明るい笑顔を見せるせいだろう。ほとんどの人間は、気圧(けお)されてしまうのだ。世間話やら意味のない会話といったものは、パワーバランスが崩れるとまるで成立しなくなる。
 高校の時なら「金持ちの割に親しみやすい」で済んでいた性格も、二十歳を過ぎた男女の間ではそうもいかない。
 ……ちゃっ…ちゃ、………
 また、ナイフとフォークの音だけが聞こえる。会話など無かったかのように。佐祐理の表情も、何事も無かったかのように、かすかな微笑みをたたえたものになっている。フランス料理–––日本食風の変形を加えたという触れ込みだが–––を慣れた様子で食べる姿は、非常にさまになっていた。着衣は黒を基調にしたシックなドレス。だが、要所要所のシルバーアクセサリと、色素が薄目のロングヘアーがふわりと全体にかかる事で、落ち着いた華やぎを匂わせている。
 ただ、佐祐理の視線はあまり男の方に向かない。アングルによっては、一人で食べているようにしか見えないだろう。
「こういう所もいいけどね。佐祐理さんが前作ってくれたの、あれ、ほんとに美味しかったな」
「そうでした?ありがとうございます」
「うん、また作ってくれる?」
「あははーっ、佐祐理はいつでもいいですよ。須藤さんさえ良ければ」
 須藤と呼ばれた男は、ははっ、と軽く声を出して佐祐理の笑い声に応えた。佐祐理の語尾が間延びする癖はともかく、笑い方の癖に関してはこういった場所でも一向に治らない。一人称も治らない。
「また、佐祐理さんのお父様にもご挨拶したいし」
「お父様も、須藤さんに会いたいっておっしゃってました」
「そう…今度伺いますって伝えておいてよ」
「はい」
 ウェイターが丁寧に近寄ってきて、二人の皿を下げた。
「今日は、迎えが来るの?」
「いえ」
「じゃあタクシーかな。送っていくよ」
「ありがとうございます」
 食べる物も会話も無くなると、沈黙が二人の間を満たす。
 佐祐理は、それでも微笑みを浮かべたまま虚空に視線を投げていた。
「卒論…無事に終わりそう?」
「ええ、大丈夫だと思います」
「そう。ま、佐祐理さんなら楽勝だよね。僕なんかどう考えても締め切りギリギリまで掛かっちゃうね。当日の4時に駆け込んで受け取ってもらうしかないな」
「ふえぇ…大変ですね」
「佐祐理さんがうらやましいな。どんな事でも、やるべき事はしっかりできるし、出来もすごいし」
「そんなことないですよ」
「でもさ。佐祐理さんを家に閉じこめちゃうなんて、なんか悪い事してるみたいに思えちゃうよ」
「でも、お父様もそうおっしゃってますから。佐祐理は須藤さんが外で安心して仕事をできるように、家を守るべきなんです」
「だって、卒業したらかなりの間はただのリーマンだよ。しかも、試験も受けずにコネで入れるんだし」
「ですけど、それが将来のための大事な修行になるって、お父様はおっしゃってました」
 須藤の父は、佐祐理の父と同じく議員だった。それも、ゆくゆくは知事やら国会議員やらに出馬するという野心も抱えた人間だった。当然、長男の光太郎には期待が集まる事になる。そして、須藤は大学を出てすぐに同族会社に就職する事になっていたのだ。
「わかんないよ。父親を継げるかなんて」
「皆さん、須藤さんには期待していらっしゃるみたいですよ」
「だねぇ。そうなんだよねぇ」
 須藤は苦笑しながら、ワインの最後の一口を飲んだ。
 見計らったように、ウェイターがデザートを運んでくる。素材の持ち味を生かすと言いたいのかどうかは分からないが、それはただのフルーツだった。イチゴ、キウイ。ガラスの皿。ヘタを取って半分にカットされたイチゴが放射状に綺麗な形で配置され、中央には飾り切りをされたキウイがある。
「綺麗ですね」
「なんか安っぽい気もするけどなぁ」
 フォークを持って、須藤はフルーツを口に運んでいく。
 それから、二人はフルーツを食べ、コーヒーを飲み、須藤が勘定を払って、レストランを出た。コーヒーだろうとなんだろうと、食べる物や飲むものがあると二人の会話は少なくなる。食べ終わるのも、必然的に速くなる。
「通りに出ないとつかまえられないかな。少し歩いていい?」
「いいですよ」
 二人は、あまり人気のない夜の街を並んで歩く。
「ねぇ、佐祐理さん」
 歩き出して間もなく、須藤が振った。
「はい」
「僕がこのまま人生送っていってさぁ、父親継げるのかな」
「でも、皆さん期待していらっしゃいますし」
「そうなんだけど。さっきも言ったし、聞いたんだけど。なんか、すごい違和感感じるんだよね」
 須藤は両腕を組みながら話す。
「僕って普通に学生やってたし、父親の仕事にも興味なかったし。ただ、人より相当多い金を出してもらっているってのはわかってたから、あとを継ぐって言われた時も抵抗しなかった。でも、話が出てから段々経ってきて。示されたビジョンに、全然現実感が感じられないんだ…」
 佐祐理は何も言わない。
「それで佐祐理さんともつき合うようになって。あ、佐祐理さんとの交際はすごく楽しいし、嬉しかったよ。ただ、なんか…」
「でも、須藤さん。お父様達は…」
 佐祐理の表現が、複数形になった。
「…うん」
 須藤は天を組んだ腕をそのままに、天を仰ぐ。
「そうなんだよな。それに愚痴言っても、自分で新しい方向示せるだけのパワー、僕にはないんだよな…自分で折り合いつけなきゃいけないんだ」
「頑張ってください、佐祐理も応援します」
「ありがとう。…本当に」
 やがて二人はやや広い道に出た。
「あ」
 幸か不幸か、道に出た瞬間にこちらの車線を「空車」のタクシーが走ってくる。須藤が手を上げると、タクシーはやや急ブレーキ気味に止まった。
「なんか、変な話ばかり聞かせて、ごめんね」
「いえ。佐祐理は全然構いませんよ」
 ドアが開く前、二人はそう会話を交わす。
 バタン。ブロロロ…
 排気ガスを残して、二人を乗せたタクシーは夜の幹線道路の中に消えていった。


「それじゃね」
「おやすみなさい、須藤さん」
「おやすみ」
 バタン。
 タクシーのドアが自動で閉まり、静かに走り出す。
 佐祐理が振り返ると、瀟洒な住宅が並んだ道を、赤と黄色のランプだけが滑るように動いていった。
 「倉田」の表札を前にして、佐祐理はどこか疲労感を覚えていた。
 確かに、いろいろな事があった一日だったかもしれない。佐祐理は、インターホンも押そうとせずに、昼間の出来事を思い返した。
 昼。夕方に須藤との待ち合わせを控えた佐祐理。大学の図書館にいる時に、一人の男と出会った。
「あっ」
 佐祐理が本を取ろうとした時、その男と手がぶつかったのだ。
「すいません」
「いや、僕も悪い。ひょっとして、この本?」
 男は佐祐理の取ろうとしていた本を本棚から取り出す。
「ええ…その本です」
「参ったなぁ。俺もこの本なんだわ」
 男は手にした本をぽんぽんと指で叩く。
「君、卒論?」
「はい」
「そりゃ悪いよなぁ。卒論書いてる学生の必要な本を持ってっちゃ」
「あの、院か講師の方ですか?」
 男はどう見ても30以上には見えた。だが、ブランド物と思(おぼ)しきスーツの上下を比較的ラフに着こなし、オーソドックスなストライプのタイ。それにびしっと決めた黒の革靴。カジュアルともフォーマルとも言い難い雰囲気は、あまり研究に明け暮れている人間のようには見えない。
「いや、俺は部外者なんだな。井上秋人(あきひと)って言って、広告代理店で仕事してる」
 男は唐突に名を名乗った。
「俺、ここの卒業生なんだけど。結構職場なんかも近いし、本の揃えも学生の時に使っていた感覚があるからさ。ここで助手やってる友達に頼んで、借り出しカード使わせてもらってるんだ」
「ふぇぇ…」
 佐祐理は単純に驚く。話の内容はそれほど驚くようなものでもなかったのだが、こういった人間は佐祐理の人生に縁遠かったのだ。
「お勉強、されてるんですか?」
「いやー、そんなわけないよ。単純に仕事の関係でさ。やっぱ、CM作るにも色々なネタがいるんでね」
「はぇー…」
 佐祐理はただただ擬音を漏らすしかない。佐祐理が使おうとしていた本が、一体どうやってテレビCMに結びつくのか、まるで想像もつかなかったのだ。
「どうしよっかな。これ。卒論には絶対にいるんだよね?」
「あははーっ、佐祐理は平気ですよ。参考にしようと思っていたくらいですから」
「そうなの?本当にいいの?」
「ええ、佐祐理は大丈夫ですよーっ」
 両手を身体の前で合わせて言う。
「じゃあ佐祐理ちゃん、恩に着るよ。卒論がんばってね」
「はい。ありがとうございます」
「うん、それじゃ。縁があったらまた会おう」
 そして、井上は颯爽と図書館の受付の方に歩いていった。
 佐祐理は少しぼーっとして井上の方を見ていたが、ふと思いついて、慌てて代わりになる別の文献を探し始めた。
 大した出来事ではない。佐祐理がちょっと気を使って、少し卒論の文献探しに手間取っただけだ。全体的には卒論は順調だったし、特に支障のあるトラブルだったわけでもない。
 それが変に印象に残ったのは、井上が佐祐理の知らないタイプの人間だったからだろう。そもそも、佐祐理がよく相手の事を知っている男性など、数えるほどしかいない。祐一や久瀬のように、佐祐理の周囲で大きな動きを見せたり、佐祐理自身が深く関わった人間はいるし、男の知り合いもいないわけではない。ただ、不思議なオーラを感じさせる、どこか等身大でないような人間と出会う事はなかったのだ。彼女の父親は…また少し意味合いが違う。
 井上の事を思い出していると、すぐに須藤の事も頭に浮かんでくる。
 はぇ…
 ため息をつきながら、佐祐理はインターホンを押した。
『はい』
「私です」
『おかえりなさい、佐祐理お嬢さん』
 長く倉田家で世話をしている女性が答えた。普段からゆったりとした喋り方をする、佐祐理に安心を与える女性だ。今年で、もう63になる。
 そしてオートロックのドアが開き、佐祐理は敷地の中に入っていく。
 佐祐理がちょうどドアの近くまで来たところで、ドアが開いた。
「おかえりなさい。須藤さんは変わられませんか」
「ええ、元気そうにされていました」
「敬三様がお嬢様をお待ちですよ」
「お父様が?」
「ええ」
「…わかりました」
「書斎にいらっしゃいます」
 佐祐理は家に上がり、父敬三の書斎に向かう。
 話の内容は、概ね想像がついた。須藤とのデートの後は、必ずと言っていいほど様子を聞かれることになる。ただ、帰ってすぐに聞かれるというのは珍しかった。
 それを思うと、卒業まで残り僅かだという事がひしひしと佐祐理に感じられる。
 …こんこん。
 佐祐理は書斎のドアを叩く。
「佐祐理です」
「入りなさい」
 父の声だった。佐祐理は重いドアをゆっくりと開いていく。
「…失礼します」
 敬三は、どっしりとした机の前の椅子に座ったまま、佐祐理の方を向いていた。
「光太郎君は、どうだったかね」
「ええ、お変わりないようでした」
「そうか。何よりだ。佐祐理も、光太郎君の事を励ましてあげたかね?」
「はい、佐祐理の出来る範囲で」
「今は彼にとって一番大事な時だ。結婚を目前に控えて、『アウラ』への就職も近いわけだからな。光太郎君も不安にしていることだろう」
 敬三は須藤家の同族会社の名を言った。
「確かに、須藤さんも不安にされているようです…」
「佐祐理。それを励ますのが、お前の最も重要な役目だ。それは十分に理解していると、私は思っているよ」
「………」
 こくん、と佐祐理は無言でうなずいた。
「彼も苦しむ時があるかもしれないが、しっかり支えてあげなさい。そうだな、来週の日曜、外泊して来てもよい事にする」
「お父様…」
 佐祐理が辛そうな口調になった。
「佐祐理、わかっているな?」
「お父様。須藤さんは、本当に苦しんでいらっしゃいます。これまで、須藤さんのお父様を継ぐ事など、考えてこられなかったのですから。ましてや私と一緒になる事を思えば。須藤さんの抱える負担は、大きすぎると私は思います」
「彼が須藤氏を継ぐためには、若い頃に相応の苦労をする事が必要だ。私は、光太郎君にはそれを十分乗り越えるだけの力があると思っているよ」
 違う、と佐祐理は心の中で言った。
「でも、本当に須藤さんは迷っておられます。その状況で困難に立ち向かわれても、決していい結果が生まれるとは思いません」
「今の段階で、結果を出す必要はないのだよ。これは、彼にとっての試練なのだ。それを乗り越えるために、佐祐理は全力を尽くさなくてはならないはずだろう?」
「佐祐理も、見ていて辛いんです…」
「佐祐理。光太郎君への思いは、その程度のものなのかね?」
「お父様…」
 敬三は、机に向き直った。
「今度から、外泊に際して特に私の許可は無くてもよい事にする」
「………」
 佐祐理は、力無く肩を落とした。
 そのまま父を見るが、言葉を続ける様子はない。
 佐祐理は、父に背を向けて一歩踏み出した。
「お父様。佐祐理が間違っていました。須藤さんの迷いを無くすため、佐祐理は自分がどうなろうと須藤さんに尽くします」
 たん。たん。たん。
 絨毯の上を歩く音がする。
「…いい子だ」
 敬三がつぶやくように言った。
 キィ…
 佐祐理はゆっくりとドアを開けて、敬三の部屋から出ていった。
 そして、同じようにドアを閉めると、うなだれながら自分の部屋に戻っていった。


 軽やかなジャッズ音楽。それに乗るような、カウベルの音。
「あれっ?」
「?」
 佐祐理が目を上げる。
 そこには、知った顔があった。
「あっ…井上…さんでしたか?」
「うん。佐祐理ちゃん、だよね」
 大学の喫茶室–––授業料をそれなりに取られる私立なのだから、普通の喫茶店を広くしたような装いだったが–––でアイスティを飲んでいた佐祐理の前に現れたのは、井上だった。冬なのにアイスティなのは、暖房が強いからだ。
「ここ、いい?」
「…ええ。佐祐理はいいですよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 井上は持っていたバッグを傍らの椅子に置くと、佐祐理の正面に座る。
「今日もお仕事ですか?」
「ねえ、何か嫌な事あった?」
「…えっ」
 開口一番、井上からそんな言葉が飛び出した。
「佐祐理ちゃん、なんか嫌なことあった?」
「な、なんでですか?」
「いや、なんか昨日に比べて全然元気なかったから」
 井上は涼しい顔で言う。
「違うかな?俺って勘はいい方だと思うんだけど」
「ふぇ…」
 佐祐理は下を向いてしまう。
 その顔には昨日起こった事を思い出した事による憂いも浮かんでいたが、井上の能力に対する驚きの色も浮かんでいる。
「あ、アイスコーヒー」
 佐祐理がうつむいている間に、井上は近づいてきたウェイトレスに注文した。
「なんかさぁ、昨日の本のお礼ってわけじゃないけど、俺でよければ相談に乗るよ。解決できるかどうか分からないけど、他人に話せば多少気が楽になるってのあるからさ。俺って、結構悩みとか話しやすいタイプって言われるんだ」
「井上さん…」
 佐祐理はアイスティーのストローをぐるぐる回す。
「話したくない?」
「いえ…でも…いいんですか?」
「俺は全然いいよ。佐祐理ちゃんが話したいとこだけ、好きなように話せば。時間は余裕であるし」
「そう…ですか…」
「ま、あんまり気負わずに話してよ。問題は大変なのかもしんないけど」
 井上の促しに、佐祐理は、ぽつりぽつりと語り始めた。喫茶室は、人がまばらだった。声が聞こえそうな位置には井上しかいない。
 許婚、政治、同族。そういった単語が出る度、井上はその古めかしさを笑った。須藤の不安を言う度、井上はそのふがいなさを笑った。
 一度ウェイトレスがコーヒーを運んできたときだけ佐祐理は声をひそめたが、それ以外の時は淡々と自分の置かれた境遇について井上に述べていった。どうしてだか分からない。自分の悩みの相談なんて、誰にもした事がなかったのに。佐祐理の口からは、準備されていたかのようにスムーズに言葉が生まれていった。
 井上は真剣だが深刻でないという表情を維持しつつ、要所要所で深く頷(うなず)いた。佐祐理が沈み込みそうになると笑って場をなごませ、一度だけ泣きそうになった時には–––父親のくだりだったが–––静かに優しい声を掛けて、佐祐理の感情の収まるのを待った。
 結果として、佐祐理は滅多に人前で見せたことのない涙を、井上の前で見せる事無く話を続けることになった。
 そして、須藤への不安をもう一度吐露すると、佐祐理は話を終える。
「なるほどねぇ…佐祐理ちゃんも、見た目によらず大変なんだなぁ」
 佐祐理が目を少しだけ細めて、やや自虐的に笑う。
「なんか、俺なんかが適当な事言える話でもないね。マジで」
「でも、井上さんにお話を聞いていただいて、佐祐理、なんだかすごく心が落ち着きました…」
 それは紛れもない事実だった。
「そう?だったら嬉しいけど」
「本当に申し訳ありませんでした。引き留めてしまって…お時間、もう大分過ぎてしまっているのではないですか?」
「いや。今日は夜までフリー。っていうか、佐祐理ちゃんは時間どうなの?」
「佐祐理ですか?佐祐理は、今日は家に帰るだけですから、大丈夫です」
「んじゃ、ちょっと思いついたんだけど、今からちょっと面白いとこ行かない?佐祐理ちゃんの悩みの助けになるかもしんないもの、今思いついたんだけど」
「えっ?」
「いや、嫌ならムリしなくて良いよ。でも、今の佐祐理ちゃんを見ていて、なんかぴったりじゃないかって思ったとこがあるんだ」
 井上は屈託のない口調で言う。
「えーと…」
 見方によっては、デートの誘いなのだ。結婚を前提に特定の男性と付き合いをしている佐祐理にとって、本来掛けられる言葉ではない。
 だが、井上は軽い気持ちでそんな事を言っているわけではないようだ。無論、言葉だけなら何とでも言えるのだが、佐祐理は井上に対して奇妙な信頼感を覚えつつあった。自分の悩みを、場合によっては解決にすら持ち込んでくれるのではないかという観念が、急速に佐祐理の中で膨らみつつあった。
「どう?」
「井上さんさえよろしければ、案内していただけると嬉しいです」
「了解。じゃ、ここ出ようか」
「はい」
「それからさ、口調、もっと昨日は明るかったでしょ。そうなんない?それとも、明るくするの辛い?」
「…いえ。そんなことないですよーっ」
 佐祐理は明るい笑みを浮かべていった。
「そうそう。その表情。佐祐理ちゃん、そうしてるのが一番可愛いよ」
 自分にあまりつけられた事のない形容詞を聞いて、佐祐理は一瞬耳を疑う。しかし、目の前にいるのが井上である事を思い、すぐに納得してしまう。
 佐祐理の足取りは、ここ数ヶ月間感じたことがないほどに軽かった。
 井上達は喫茶室を出ると、すぐに大学も出てしまった。
「ちょっと歩くけど」
「わかりました」
 そして、15分ほど歩く。賑やかな方というわけでもないし、静かな住宅街の方でもない。その中間、寂れた感じの小規模な商店街や個人商店がある辺りに向かっていた。
 たどりついたのは、一つの建物。ビルでも住宅でもない、どこか中途半端な建物。小劇場だった。
「佐祐理ちゃん、こういう所来たことある?」
「いえ、ないですね」
「そうなんだ。俺は好きで、たまに来るんだけど」
「面白そうですね、こういうところ」
「劇団ってのもまた独特の集団だからね。ま、入ろう」
「はい」
 そして井上は当日券を買って、佐祐理に渡した。
「夕方の公演だからまだいいけどね。夜だと足りなくなることもあるんだよ」
「ふぇー、すごいです」
 佐祐理はただ感心するばかりだった。
 二人は、折り畳み椅子が並べられた会場に入っていった。確かに、人は少なくない。佐祐理と井上は、観客の中で最後の方のようだった。
「あそこしかないね」
「二つ空いていて、良かったです」
 佐祐理と井上が座ると、間もなく入り口の扉が閉まり、劇が始まった。
 展開されるのは、どこかドタバタの雰囲気もあるストーリー。いや、ストーリーというものがハッキリあるのか良くわからない。ただただ、大したことのない事件が起こって、登場人物達はそれに対して普通の対応を取っているだけ。間抜けな状況が起これば観客はどっと笑い、登場人物が面白くもないギャグを飛ばしても観客が同じように笑う。
「ハハハっ」
「あは、あはっ」
 観客が笑うところでは、佐祐理も井上も笑った。
 そうして見ていく内に、いかにも現実世界にありそうな演技でも、実は観客の視線を考慮に入れた、巧妙なものであるという事が佐祐理にも薄々分かり始めた。
 そして、劇の中で数々起こった事件は何も解決せず、幕が閉じる。
 観客の流れに沿って、二人は劇場を出る。外は、かなり暗くなっていた。寒さが染み込んでくるようだ。
「どうだった?」
「面白かったです。いろいろ」
「佐祐理ちゃん、笑ってたもんね。おかしそうに」
「はい、ほんとにおかしかったんですよーっ」
「いつものと笑い方違ったからね。あの時」
「えっ?」
「いつもの佐祐理ちゃんの笑い方とさ。あ、本当に面白がっているんだなって思った」
 佐祐理は、言葉に詰まる。
「ところでさ、劇って、仮面だよね。あの劇ではいかにも現実にありそうなしょうもない話やってたけど、それでも役者はみんな仮面をかぶってるわけでさ」
「は、はい」
「仮面。ペルソナ、だよね」
「え、えーと」
「知ってるよね?意味」
「はい、知ってますけど…」
 佐祐理は答えたが、それ以上井上が言葉を続けない。
「あの、井上さん」
「佐祐理ちゃんさ。もう結構遅いし、ご飯食べてかない?」
「あ…」
「もう6時半回ってるよ。お腹すいたでしょ?」
「でも、井上さんは…」
「俺は全然いいよ。今の劇の話、もう少ししたければって思って」
 佐祐理は、タイムスケジュールを頭の中で組み立てた。
「本当に、井上さんは迷惑されませんか?」
「だから、OKだよ」
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。でも、一度電話を家に入れておきます。夜御飯をいらないってこと、伝えておかなくちゃいけませんから」
「わかった」
 そして、佐祐理は歩く途中で見かけた公衆電話で家に連絡を入れた。特に疑われている様子もなく、会話は終わる。
「だいじょうぶだった?」
「はい、問題ありませんでした」
「じゃ、行こう。もうすぐだよ」
 やがて井上が立ち止まったのは、小さな店の前だった。居酒屋のような、料理屋のような、庶民的だが多少上品な雰囲気を漂わせた店。和紙に筆で書かれた、『熊吉』という看板しか出ていない。
「ここ」
「ふえぇ…」
「こういうの、嫌い?」
「いえ、すごく面白そうです」
「うん、ここのオヤジさんいい人だし。気に入ると思うよ」
 井上はガラッと戸を開けて、入っていった。
 店の中では、カウンターの中に夫婦らしき店の人間がいる。
 男の方は入ってきた二人にじろっと目を見やってから、すぐに顔をほころばせた。
「よう、あきちゃん!今日は女の子連れかい」
「大学の後輩だった子。オヤジさん、適当においしいとこお願いしていい?」
「あいよ。まずはビールか?」
「うん、佐祐理ちゃんは?」
「えーと…私も同じでいいです」
「可愛い子じゃないの。あきちゃん、手だしちゃだめよ」
「おばさん、人聞きの悪いこと言わないでよ」
 アットホームに展開される三人の会話に、佐祐理は戸惑うばかりだった。
 しかし、愛想良く話しかけてくれる二人と、井上のサポートによって、佐祐理も段々と会話の中に入っていく。アルコールの手助けも多少はあった。
「このつくね、すっごくおいしいですねーっ」
「うん。これはよそじゃなかなか食べられないよ」
「そうだろ。そのつくね、うちの自慢」
 『熊吉』はヤキトリを中心として色々と料理を出す店だった。当然ブロイラーなどではなく、選ばれた地鶏。二人の料理の腕もよいようで、日本酒の揃えも良い。そして、こういった店の常として、常連客以外は入れないという姿勢。
 佐祐理は、初めて来たところだという事など忘れて会話を続けた。やがて他の客も入ってくると、中年や老人の中で、佐祐理はアイドル的な感じになりつつも、会話のトーンは変わらない。今日の『熊吉』は、大いに盛り上がった。
「じゃ、そろそろ俺達行くわ」
「えー、あきちゃんとさゆりちゃん、もう帰んのかい」
 客の一人が不満そうな声を上げる。大分出来上がっているようだった。
「うん、また来るよ。今日はこの辺にしとく」
「さゆりちゃんも、また来てね」
 店のおばさんが声を掛けた。
「はい、とってもおいしかったですーっ」
 佐祐理は立ち上がろうとするときに、少しふらついた。
 ビールをグラスで3杯に、日本酒が1合と少し。
「おっと…大丈夫かい?」
「俺が送っていきますから。佐祐理ちゃん、一人で立てるよね?」
「はい、井上さん、佐祐理は大丈夫ですー」
「じゃ。ごっそさんでした」
「あいよー」
 ガラガラッ。
「ふぅ…」
 外に出ると、凛とした空気が二人を迎えた。『熊吉』の中からは、まだ喧噪が聞こえてくる。
 寒さの中で、アルコールによる温かさが心地よく感じられた。
「どうだった?」
「楽しかったです…すごく」
 頬を染めた佐祐理が言う。
「酔いの方はどう?」
「佐祐理は、そんなにお酒に弱くないですけど…少し酔っちゃったみたいです」
「少し醒ました方がいいかな。どうする?」
「どう…しましょうか…」
 佐祐理は、こてんと井上にしなだれかかる。
 鈍った思考回路が、その事の意味をかなり遅れてから佐祐理に告げた。でも、佐祐理はその身体を持ち上げるのがどうにも気怠くて仕方がなかった。
「佐祐理ちゃん…確かに楽しそうだったね」
「はい…」
「今まで、あんな感じの雰囲気に入ったことある?」
「ないです…」
「佐祐理ちゃんは、そうなんだよね」
 どのように「そう」なのか分からなかったが、佐祐理は深い安堵感を覚えてしまった。
 さら…
 井上が佐祐理の髪を撫でる。
 それは、遠い昔に忘れてしまったような、懐かしく切ない思いを佐祐理に与えた。
「ねぇ、佐祐理ちゃん、お父さんが、外泊を勝手にしても文句言わないって言ったんだよね」
「………」
 佐祐理はぼうっとした頭で記憶を探る。
 しばらくして、記憶が敬三の記憶に当たったとき、アルコールで弱くなっていた彼女の制御回路がぷちっと切れた。
「井上さん…」
 佐祐理が、自分の身体を井上に押しつける。
 井上は、佐祐理を抱きしめてそれに応えた。そして、素早く佐祐理の唇を奪う。
「佐祐理ちゃん…」
「井上さん…」
「ここでじっとしてたら、風邪引いちゃうよ。どこか入ろう」
 佐祐理は、井上に身体を預けながら歩いた。まるで夢の中を歩いているような、ふわふわとした心地。佐祐理は永遠に目覚めたくないと思った。


「佐祐理ちゃん…本当に、いいね?」
 バスローブ姿で横たわる佐祐理に、井上が問う。
 ミネラルウォーターを飲んで休み、ぬるめのシャワーを浴びた後で、佐祐理の酔いはもう大分醒めていた。
 そうなると、色々な事に思考が向く。須藤の行動については、彼の父親はまるで把握していないということ。佐祐理の父親が、須藤に佐祐理と一緒にいたか問いただす可能性は無いという事。それらを鑑(かんが)みても、もし事態が明るみに出たなら、破滅があること。
「いい…です…」
 それでも、佐祐理は井上の目を見てそう言った。
 井上は、にこっと微笑んでそれに応える。
「佐祐理ちゃん、リラックスして…」
 そう言われると、本当に佐祐理の身体から力が抜けていった。自然と佐祐理は目を閉じてしまう。そして井上の挙動を待つ。
 まず、唇に井上の唇が触れる感触があった。路上でのキスと同じ感覚だが、井上はすぐに舌を佐祐理の口の中に入れてくる。
 唇の間を舌が割っても、反射的な抵抗感は起こらなかった。井上の舌はスムーズに佐祐理の口腔に到達する。そして、歯ぐきをくすぐり始める。
 未知の感覚に、佐祐理はぞくぞくとしたものを覚えた。井上の舌が歯に移動すると、ますます奇妙でもどかしい感覚が佐祐理を襲う。愛撫されているのに、まるで自分の身体の一部でないところが愛撫されているような気持ちになってしまう。
 その不可思議な感覚で佐祐理を満たしてから、井上は佐祐理の舌に自分の舌を絡めさせた。
 たっぷりと焦らされたせいで、佐祐理の舌は敏感に井上の舌のぬるんとした感触を受け止めた。そして、自らも交歓を求めて貪欲に動き始めた。
 佐祐理が舌を上げ下げすると、井上は少し舌を引いて、舌先の部分だけを佐祐理と合わせた。舌先の触れあう、くすぐったさにも似た微細な官能が佐祐理を襲う。それに衝き動かされ、佐祐理はますます舌を激しく動かせる。井上の舌を求めて、必死で舌を突き出すが、井上はその度に舌を引いて逃げた。
 幾度もそれを繰り返した後、井上はおもむろに唇と舌全体で深く佐祐理を求める。ようやく生まれた激しく舌全体の絡み合う感覚に、佐祐理は我も忘れてキスをむさぼる。
「はぁっ」
「はっ、はぁっ、はぁっ…」
 井上が離れると、佐祐理は息を荒げた。
「佐祐理ちゃん、上手。いつもリードしてあげてる?」
「そ、そんな事ないですよ」
 須藤とのキスなど、ほとんどディープキスになっていないようなものだ。
「じゃあ、天性なのかな。すごく上手いよ」
 井上は佐祐理のバスローブをはだける。
「あ…自信、ないです」
「そんなことないよ。きれいなおっぱい」
 井上は両の手をそれぞれの乳房に当てて、くいくいと回すように揉み始めた。形良く上を向いた佐祐理の乳房が、井上の動きに合わせてぷるんぷるんと弾力をもって震える。
「ん…はぁ」
 佐祐理が吐息を漏らす。
「気持ちいい?」
「はい」
「これでいい?それとも、もっと激しいのがいい?」
「もっと…しても、大丈夫です」
 それを聞いて、井上は一回り揉む速度を上げる。そして、乳房をつかむ力自体も強くする。
「ん…はっ、は…あん…」
 佐祐理が、ひっきりなしに甘い吐息を漏らす。
「感じちゃう?」
「あ…あっ、はい…」
「ほら、乳首立ってきたよ」
「いっ…井上さんが…上手いから…」
「佐祐理ちゃんも、敏感だしね」
 井上は片方の乳房への愛撫は続けながら、膨らみ始めた紅色の突起に口づけた。
「んーっ」
 唇でくわえ、舌先でひとしきり舐める。それから、あっちこっちに転がしたり、周りの乳房ごと思い切り吸い上げたり。乳首も、乳房全体と同じように綺麗な形だった。
 十分濃厚な愛撫が加わったところで、井上は舌と手の担当を逆転させる。双方の胸に、たっぷりと口づけの嵐を降らせる。
「どう?もうかなり良くなっちゃった?」
 再び乳房全体を揉みながら、井上が言った。
「は、はい…もう…佐祐理は…」
「じゃ、大事な部分を見せてもらおう」
 井上は、バスローブを完全に広げてしまった。佐祐理の長い髪に包まれたスレンダーな肢体が、頭からつま先まで、何をも纏わずに露わになる。
「あれれっ」
「ん…い、井上さんがすごく舐めるからです…」
 既に、佐祐理の秘裂の間からは、愛の雫が垂れてバスローブを濡らしていた。
「なに、なにこれ」
 井上が、二本の指で秘裂を左右にぐいっと開く。
「い、いやですっ」
 その拍子で、また愛液がとろっとあふれ出してしまった。バスローブについたシミが、さらに広がる。
「もう、こんなの。すごいよ」
「佐祐理、あ、あの…」
 手で覆い隠そうとするが、井上は身体でそれをブロックする。
「こんな子見た事ないよ。ムネだけで、これだけびちょびちょにするなんて。佐祐理ちゃん、ひょっとして見かけによらずインラン?」
「ち、違います…佐祐理も、こんなになったの初めてなんです」
「ふーん。彼氏、きちんと触ってくれないんだ?」
「え、ええ」
「可哀想に。佐祐理ちゃんのあそこ、こんなにエッチなのに」
 井上は、秘裂の間に指を差し込んで無造作に動かした。
「ふはあぁっ」
 動きの度に、新しい愛液が生まれて秘裂を潤す。佐祐理の身体には、びうん、びうんという脈打った快楽が生まれる。
「クリいじったらイキそうだね」
「わ、私、ちゃんとイッたこと、まだ一度もないんです」
 佐祐理は恥ずかしい告白をした。イク、という単語は須藤が射精する時に使っていたところから引用したものだ。
「じゃあ、佐祐理ちゃんの初イキ、見せてよ」
 井上はクリトリスの上に指を当てて、小刻みに震わせた。
「あああーっ」
 佐祐理が身体をのけぞらせて悶える。身体を左右に転がそうとするが、井上はそれを執拗に追いかけて、クリトリスから指を離そうとしない。
「あ、佐祐理、佐祐理、変になりますっ!」
 切羽詰まった声。
「イけ!イくんだ!」
 井上が指の動きを続けながら、断定的に言う。
「あ、あ、あーっ」
 ぴくっ…と身体を小さく痙攣させて、佐祐理は初めてのエクスタシーを迎えた。
「どう?」
「き、気持ちいいです…」
 衝撃はそれほど大きいものでは無かったようで、佐祐理は顔を紅潮させながら感想を述べる。
「いきなりだったからね。もっと深いの、感じさせてあげる」
 井上は、身体を伏せて、頭を佐祐理の股間に寄せた。
「あ、井上さん…」
 佐祐理が不安そうな声を上げる。しかし、拒みはない。
 井上が、ぎゅうっと佐祐理の両の太股をつかんだ。
「ああ…」
 どうしようもない不安感と期待感に包まれ、佐祐理は声を震わせる。
 井上は、舌を思い切り尖らせて秘裂に近づけていった。
 ぬとっ。
「あ、あ」
「佐祐理ちゃんのジュース、量が多いけど味が薄いんだね」
「い、いやです…井上さん」
「たくさん、飲んであげるよ」
 べろっ。べろっ。
「ふあ…あっ!」
 井上は舌全体で秘裂を割ると、粘膜の底を思い切りぬぐい取るようにして舐めた。一番愛液の多く溢れているところ。井上の口の中は、すぐに佐祐理の愛液の味でいっぱいになる。
 それでも、佐祐理のヴァギナからはとめどもなく愛液があふれてきた。しまいには、井上はヴァギナの入り口に口をつけて、出てくるそばからずずっ、ずずっと音を立てて吸う。その感覚に、佐祐理は激しい背徳感と快感を合わせ感じる。
「…うーん、佐祐理ちゃんのジュースってすごくおいしい。俺、これ飲むだけですごい興奮しちゃった」
 佐祐理は顔を真っ赤にする。
「じゃあ、またイカせてあげる」
 井上は舌をクリトリスの方に向ける。
 ぷっくりと紅に染まってしまったいたいけな突起を、井上はずるっと無遠慮に舐め上げる。
「あはーっ!」
 二回、三回とするうちに包皮はすぐに剥けた。佐祐理の性感のカタマリを、井上は思いつくままに責め立てる。転がす、つつくは当たり前で、乳首にしたような吸い上げも、何度も何度も行う。
「いい、あーっ、ああー、いいっ、佐祐理、いいですっ!」
 佐祐理は井上の頭に両手を当てて、恥じらいもなく絶叫する。それと共振するように、井上は頭を左右に激しく揺らしながら舌戯を続ける。
「も、もう、佐祐理、だめですっ!」
 井上の手で押さえ込まれた佐祐理の太股が、ぎゅうっと井上の頭をはさむように動く。井上はそれに逆らわず、自分の頭を挟み込むむっちりとした感触を感じながら、クリトリスに最後の刺激を加えていく。
「ああああーっ!」
 佐祐理の絶叫と共に、佐祐理の太股と両手にぎゅううっと力が入った。
 そして、がくっと力が抜ける。ひくっひくっと性器全体を震わせながら、佐祐理は絶頂の余韻に浸る。
「すごかったろ?」
「は…はい…」
 佐祐理は返事をするのがやっとだった。息も絶え絶えに、まだ続いている性感の高ぶりを楽しむ。
 井上はその様子を見てから、コンドームを準備した。バスローブを脱いで、屹立した自分のペニスに素早く装着する。
「今度は、俺が気持ちよくさせてもらうよ」
「き、きてください…井上さん」
 井上はなされるがままになった佐祐理の身体を引き寄せ、ヴァギナにペニスの照準を当てる。それを躊躇無く差し込んだ。
「んああ…」
 未だ絶頂の余韻残る佐祐理が、惚けた声を上げる。
 動けない佐祐理を、井上は思い切り突き上げる。その度に絶頂を迎えたばかりのヴァギナが激しく刺激され、佐祐理は痺れるような快感を覚える。
 スピードを一定に保ったストローク。須藤の動きとは雲泥の差だった。腰を入れる位置を微妙にずらし、佐祐理の奥深くで当たる位置を少しずつずらしたり、突然浅い抽送を幾度も繰り返して佐祐理の焦燥感を煽ったりする。
「あ、あ、あ…井上さん、すごいです…」
「佐祐理ちゃんの中、すごい気持ちいいよ。今度生でしてみたい」
「ああ…井上さん…」
 佐祐理は、これまで感じたことのないほどの幸福感を味わっていた。
 もはや、井上に対する感覚は、話の聞き手や年上の指導者ではあり得ない。
 恋人関係。愛の関係。
「い、いのうえさんっ!」
「佐祐理ちゃん」
「愛してます!佐祐理、井上さんを、愛してます!」
 井上は、無言で激しい抽送を繰り返した。
 時々うわごとのように愛していると繰り返す佐祐理。
 熱病のように取り憑いて離れない快感の中、意識が朦朧(もうろう)としていく。
 やがて井上は佐祐理の中で果て、コンドームに白濁の液を吐き出した。
 佐祐理の中からそれを抜いた時には、佐祐理は失神したようになってしまっていた。


「本当に、すごかったです…井上さん」
 佐祐理はしばらくして気を取り戻すと、裸のまま横にいる井上に抱きついた。
「まあ…由美と純也が知ったら、怒るだろうけどね」
 一瞬遅れて、佐祐理の身体がびくんっ!と本当に震える。
 二つとも女の名前だったら、まだ救われるのだ。だが、二つ目の名前は間違えようもない、男の名前。
「言ってなかったね。俺、家庭あるんだ」
 どくん、どくん、と脳が心臓のように脈打つ気がした。きぃんと耳が遠くなって、視界がぼやけた。
「ひ、ひどいです」
「俺の歳考えたら、普通そう思わない?」
「で、でも…それで誘うなんて」
「思わないのは佐祐理ちゃんの勝手だけどね。もう、関係は出来ちゃったんだし」
 佐祐理は、井上が全て自分をだましていたのではないかという気すらしてきていた。
「あ、別にこの関係を俺が無理矢理維持させようとしているわけじゃないよ。俺は佐祐理ちゃんの連絡先も聞かないし、調べもしない。ただ…」
 井上が寝た姿勢のまま振り向いて、佐祐理の顎に手をかける。
「佐祐理ちゃんが、俺とまた会いたくなっちゃったら。それはいつでもOKだよ」
「そ、そんな事…できるわけありません」
 佐祐理は井上の手から逃れて、井上に背を向けた。
「ポケベルの番号と使い方教えるよ。だから」
 もはや佐祐理は井上の話を聞こうとしていなかった。
「佐祐理ちゃん」
 それでも、井上の声をシャットアウトする事はできない。
「常に自分が被害者になる事なんて不可能だよ。三人称で進む物語は、神様でもない限り作れないんだ」
「………」
「おやすみ」
 –––次の日まで、どうやって過ごしたのか佐祐理は覚えていない。
 ただ、井上がシャワーを浴びている音で目が覚めたのは確かだった。
 それを追いかけるように、佐祐理も慌てて起きて井上の次にシャワーを浴び、身支度をした。
 井上は約束通りポケベルの番号とメッセージの入れ方を教えてくれた。
「使いません、絶対に」
「そう」
 井上は、それ以上の事を言わなかった。
 そして、二人でホテルから通りまで歩き、佐祐理はそこでタクシーを拾った。
「さよなら」
「…さようなら」
 佐祐理はタクシーの窓から外を流れる景色を、非現実であるかのように見ていた。
 それから3日後、佐祐理は本当に須藤と外泊した。
 その日の夜、佐祐理は生まれて初めて自慰をした。
 その2日後、佐祐理はついにポケベルにメッセージを入れた。
 その日、すぐに佐祐理は井上と会い、抱き合った。ただし、夕方には家に戻った。
 後は、単純な話だった。
 須藤との1週間に1回の外泊。
 1週間に2回の井上との逢瀬。井上の時間の都合が難しかったため、ほとんどは昼間にホテルで1時間程度抱き合うだけ。それ以外の日、毎晩の自慰。
 自分の性癖にも気づかされた。佐祐理は、視界を遮られたり、拘束によって行動の自由が奪われたりすると、異常なほど興奮を覚えた。
「なんで、井上さんは、佐祐理を抱いたんですか?」
「うーん。なんでだろう」
 井上は悪びれもせずに言う。
「可愛い佐祐理ちゃんが、苦しんでいたからかな。それだけ」
「井上さんは、それで井上さん自身が傷ついても構わないと…」
「さぁ。どうだろうね」
 そうしながらも、大学の卒業、須藤との結婚は近づいていった。にも拘わらず、この危険な関係を、佐祐理と井上以外の人間は誰も気づいていなかった。
「なんで、誰も気づかないんでしょうね…」
「佐祐理ちゃんの演技が上手いんだよ。きっと」
「演技ですか?」
「そう、演技」
「佐祐理の、演技ですか…」
「劇の中の、演技」
「あははーっ…」
 二人の寝るベッドに、悲しい笑い声が透き通っていった。