弥生[誤算]


(以下のストーリーはこのSSの作者の解釈によるものです)
 大学生藤井冬弥と、その恋人にしてアイドル歌手森川由綺。二人には高校時代からの付き合いがあったが、由綺が緒方英二のプロデュースやマネージャー篠塚弥生のサポートによって成功の道を歩むにつれ、会える時間が短くなっていく。
 弥生は、冬弥と由綺が深い恋愛関係を築くことで由綺の将来性を潰してしまう事を示唆し、冬弥が由綺に接近することを防ごうとする。代わりに提示されたのは、弥生の身体を冬弥に提供することだった。どうする事が由綺のためになるのか、冬弥には結論を出せない。
 やがて、弥生と冬弥は恒常的なセックス関係を持つようになる。無論、由綺の知らないところで。歌手にとってのビッグイベントである「音楽祭」に由綺がノミネートされた事で、ますます冬弥と由綺の会えない時間は広がっていく。しかも、英二が由綺に対して思いを抱いている事も明らかになっていく。
 結局、由綺は「音楽祭」で、「最優秀賞」の次点である「優秀賞」を獲得した。「最優秀賞」を獲得したのは、緒方英二の実妹である緒方理奈である。
 いつしか、冬弥は弥生に対して妨害者としてだけではない、奇妙な感情を抱くようになる。だが、「音楽祭」の前日に冬弥が弥生の誘いを断ったのを最後に、冬弥と弥生の関係は途絶えた。
 それから、1週間が経った。


 トゥルルルルルルッ。
 トゥルルルルルルッ。
 トゥルルルルルルッ。
 トゥルルルルルルッ。
 トゥルルルルルルッ。
 トゥルルルルル…
 ………
『…緒方プロダクションの篠塚ですが。……由綺さんの事でお話したい事がございまして、お電話差し上げました。今晩また掛け直させて頂きます。それでは』
 弥生さん…?
 俺はベッドの上から身を起こした。
 ずっと眠っていた割には、頭の動きは鈍くない。意識が一応覚醒状態になってから、もう30分は経っていたせいだろう。
 平日の昼間に5時間も惰眠できる身分。大学生はつくづく解放されていた。
 俺は机の上にある赤いLEDランプの明滅をしばし見つめる。昔なら、このランプが弥生さんからの警告か何かの代理人みたいに見えたのかもしれない。そんな感覚は、大分前に崩れていたのだが。
 とりあえず俺はキッチンに向かった。俺は料理をほとんどしない人間なので、キッチンというよりは冷蔵庫が置いてある給湯室と言った方が正しいかもしれない。
 だから冷蔵庫も小さい。そこからミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。冷蔵庫には、同じ500mlペットが5本並んでいた。俺は水道水がダメな人間なのだ。中学の時に田舎にいたのが最大の原因だろう。小さい頃は普通に東京の水を飲めていたのに、一度田舎に行って帰ってくると水道水が不味くてしょうがなくなる。人間は勝手な生き物だ。
 ペットボトルに直接口をつけ、一口水を飲む。そのペットボトルを持ったまま、部屋に戻った。
 フローリングの上を素足で歩くのは結構冷たい。最近は結構暖かくなってきたからいいのだが、冬なんかは身体の調子を悪くしかねない。俺は冷え症なのだ。
 というわけで、ベッドの下にある引き出し型の収納ボックスを引っぱり出し、ソックスを取り出す。漂白した後の真っ白なソックスは見ているだけで気持ちいいし、履くだけで心に落ち着きが出てくる。
 俺は寝るときに脱いだソックスをつかんで、洗面所に持って行った。そして、洗濯機の横のカゴに放り込む。
 それからまた部屋に戻り、ペットの水を一口飲む。
 …ようやく人心地ついてきた。
 俺は机の前の椅子を引き出して座る。システムデスクに合わせた、機能的なグレーの椅子だ。
 留守番電話のボタンを押す。
『ピーッ……。緒方プロダクションの篠塚ですが。……由綺さんの事でお話したい事がございまして、お電話差し上げました。今晩また掛け直させて頂きます。それでは。……ピーッ……。3月 8日 午後 2時 48分 です』
 ふむ。
『ピーッ……。緒方プロダクションの篠塚ですが。……由綺さんの事でお話したい事がございまして、お電話差し上げました。今晩また掛け直させて頂きます。それでは。……ピーッ……。3月 8日 午後 2時 48分 です』
 オートリピート機能がないのが残念だったが、俺はとりあえず二回再生するだけにしておいた。
 弥生さんの、どこか機械を連想させる声質はいつもと変わらない。話している内容も事務的で、特に変わり映えする点はないと言ってよいだろう。
 ただ、「由綺さんの」の前に妙な沈黙がある。
 確かに俺と弥生さんの間には、由綺に対する共通の裏切り–––少なくとも、秘密–––があるのは間違いないことだ。それでも、弥生さんが何か話す時に言い淀んだりしたのは見た事がない。たとえ由綺に関することでも、だ。
 そして最大の疑問があるとすれば、弥生さんが電話を掛けてきたという事実そのものだ。
 俺と弥生さんのパーソナルな関係は、音楽祭で終了したのではなかったのか?俺が引きずってしまうことは百歩譲ってあるとしても、弥生さんがあれを引きずってしまう事はあり得ない。
 どうも理解しがたい。だが、弥生さんの思考回路を探ってみたところで、俺では何をも探し出す事は出来ないだろう。
 実際に本人から電話が来るのを待つべきなのだ。
 俺は椅子から立ち上がった。そして靴下を脱ぐ。
 来るのが果報かどうかは知らないが、俺はベッドに寝転がって布団をかぶった。人間、少しぐらい徹夜しようが一日20時間寝ようが、死にはしない。


 トゥルルルルルルッ。
 ばっ!
 俺は布団を一気にはね上げた。
 トゥルルルルルルッ。
 だんっ!
 身体をひねって、床に飛び降りる。
 トゥルルルルルルッ。
 俺は小走りで机の前に向かった。赤いLEDランプは小刻みに震えて俺の事を呼んでいる。
 トゥルルルルルルッ。
「ふぅっ…」
 俺は軽く深呼吸した。
 トゥルルルルルルッ。
 五回。
 トゥル…
「はい、藤井ですが」
「夜分遅く失礼いたします。緒方プロダクションの篠塚ですが」
「冬弥です。すいません、昼間は出ていて…」
「いえ。由綺さんの件なのですけど…」
「あ、はい」
「また、大きな仕事が入りまして」
「え」
「昨日と今日、由綺さんは大学の方に行かれなかったと思いますが」
「そうですね、確かに…」
 曖昧に話を合わせる。と言っても、今日は一部の遅いテストがあったりするくらいで、ほとんどの人間にとっては休日に等しい一日だったのだが。
「緊急のミーティングだったのです。緒方さんが我々を集められて」
「はぁ…」
「その場で、突然、台湾に進出するという話を緒方さんはおっしゃいました」
「たい…?」
 話があまり飲み込めなかった。
「ええ。台湾です。実際、台湾では日本のサブカルチャーが今大変な人気ですし、戦略的にあり得ない話という事はないのですが…なにぶん突然な話でして、由綺さんも驚いておられました」
「それは、そうでしょうね」
 俺も十分驚いている。内心では弥生さんもかなりショックを受けているのだろう。電話で聞いてて、多少動揺しているのが俺にわかるくらいなのだから。
「いずれにしても、緒方プロダクションでは緒方さんの決定は絶対ですから。個人レベルでの接触は、以前から色々な方面になされていたようですし」
 今の弥生さんは不思議なくらい饒舌だった。英二さんの話とか、俺にはあまり関係ないような話まで出てくる。
「ですから、これからしばらくの間、由綺さんは緒方さんのスタジオでのレッスンに多くの時間を費されることになります。そう、音楽祭の時のように、ですね」
 あ…
 あまり急な話だったから、由綺の問題をすっかり忘れていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。そうすると、音楽祭の時みたいに」
「ええ。藤井さんと由綺さんの接触は、制限させて頂く形になりますね」
「弥生さん」
「はい」
「弥生さん、確か言ってましたよね。俺と由綺が離れなくてはならないのって、音楽祭までの一時期だけだって」
「音楽祭までとは申しておりませんが。確かに、目安としては適当なものでしたかもしれませんわね」
「で、手の平を返したようにまた俺と由綺を離す…それで、俺が納得すると思っているんですか?」
「納得されないでしょうね」
「納得されませんよ」
「仕方ないことなのです。緒方さんの決定を覆す力は私にはありませんし、これも由綺さんの成功へのステップである事は間違いありませんから」
 確かに。
 弥生さんが俺と由綺を引き離したのは弥生さん独自の判断だが、緒方プロダクションの意思決定は弥生さんの介在できないもの…いや、英二さんの判断だ。
 それが由綺の前進につながるのなら、弥生さんは反対する理由などないだろう。
「…それで。俺に…」
「前と同じことです。藤井さんが寂しくされているのでしたら、私がいつでもお相手いたします」
 返ってきた返答は、予想通りのものだった。
「台湾行きって、1ヶ月や2ヶ月で済む話じゃないんでしょう?」
「そうですね。少なくとも半年、恐らくは一年がかりの取り組みになるかと思います」
「下手をすれば、大学も」
「今回は休学も視野に入れております」
「それで、由綺は納得したんですか!?」
「…ええ」
 一瞬の沈黙があったが、すぐに肯定の返事が返ってくる。
 事実なのだろう。それは。
「そんな…」
「お気持ちは理解しますが。これらは、全て決定されたことなのです。もう、全て動き始めている事なのです」
 俺が英二さんに直談判出来る話でもない。ADのバイト自体最近はめっきり行かなくなっていたし、直接話して何かを変えられるわけでもないのだ。
 おととい由綺と話した時の、屈託のない笑顔が浮かぶ。音楽祭の疲れがすっかり取れたという由綺との、他愛のない会話と、あてのない街の散策。途中で偶然会った、彰、はるか、美咲さんを加えた5人での会話。
 それがまた夢のように引き剥がされようとしている。いや、引き剥がされた。
 由綺の、前進のために…?
「弥生さんは」
 受話器につぶやくように、言った。
「弥生さんは…それでいいんですか?」
「………」
 返事は返ってこない。
「由綺が、こんなので、喜んでくれると思っているんですか…?」
 やはり返事は返ってこない。
 俺はどこかで俺に電話を掛けている弥生さんの姿を想像した。夜の公園。携帯電話。その表情は長い髪に隠されて見えない。ただ、その髪の向こうに隠された表情として最もふさわしいのは、きっとメランコリィと焦燥。
 なんでだろう。
「最初に由綺さんが台湾に向かうのは」
 唐突に弥生さんの声が返ってくる。
「…はい」
「恐らく7月の頭になると、緒方さんはおっしゃっていました」
「はぁ」
 何の、話だ…?
「その時、私は日本に残ることになっています。緒方さんが日本を不在にされている間、理奈さんのマネージャーを委されることになりまして」
 あ…
「英二さんと、由綺が、二人きりってことですか?」
「二人きりという事はないでしょうね。色々なスタッフがついていきますから」
 同じことだよ…
 弥生さんもそんな事は理解しているんだろう。
「わかりました…一応、ですけど」
「そう、ですか」
「それじゃ…」
「藤井さん。由綺さんから、伝言が…」
「…何でしょう?」
 思わず、由綺の悲しそうな顔が脳裏に浮かんでしまう。
「本当は由綺さん自身がお伝えになりたいそうなのですが。私を通じて今回の話をお教えする事を、許して頂きたいと…」
「わかりました」
「由綺さんと藤井さんが一緒に過ごされる時間が出来るという話が、結果的に嘘になってしまったことを、お詫びさせて頂きたいと…」
「わかりました。弥生さん、俺の方からも由綺に伝言をお願いしたいんですが」
「はい」
「がんばって欲しいと。それから、俺は大丈夫だと」
「かしこまりました」
 弥生さんの言う「かしこまりました」は、コンビニなんかで聞くのとは全然違う性質を持った言葉だ。あまりに頼もしい弥生さんの人格に裏打ちされた、完璧な保証なのだ。
「それじゃ、お休みなさい」
「お休みなさいませ」
 プッ。
 ツーツーツー…
 俺はしばらくその機械音を耳にしていた。状況の変化にさらされた俺の身体に、単調なトーンはとても心地よかった。


 数日後。俺は「エコーズ」でバイトをしている時に、弥生さんに連れられた由綺と会った。偶然にだ。
 由綺はほとんど涙ぐみそうになりながら、俺に対して詫びた。その内容は弥生さんが電話で言ってくれた内容とほぼ同じだったのに、由綺はずっとずっと、スタジオに戻らなくてはならなくなるまで俺に謝り続けていた。
 そんな由綺を、俺は慰め続ける事しか出来なかったし、弥生さんはスタジオに戻る事を促して由綺を止める事しかできなかった。
「冬弥も由綺も、辛いね…」
 客が誰もいなくなった店の中で、彰が言う。
 そう、由綺が俺に対して謝り続けている間、彰や店長もいたのだ。弥生さんが止めなかった所を見ると、今回のプロジェクトは水面下で進行しているわけではないのだろうか。
「仕方ないだろ。緒方プロダクションの決定なんだから」
 本心と建前が半分ずつだった。
「うん…」
 彰はそれに対して深く追及せず、
「あの女の人、冬弥の上司の人だって本当なの?」
 別の話題を振ってきた。
「うーん、なんて言うか…とりあえず由綺のマネージャー」
「そうなんだ…」
「だから、ADやっている時、仕事次第では上司みたいになるっつーか。まぁ、別に俺は緒方プロダクションの下で動いているわけじゃないし、正確な意味での上司じゃないかもしれないけど」
「やっぱり、ただのテレビ局の人じゃなかったんだ」
 そういえば、弥生さんが俺に絵画論を持ちかけた時に彰がいた気がする。
「そうだな。あーいう能力と性格の持ち主」
「でも、いい人なんだね」
「そう?」
「だって、由綺から冬弥を完全にシャットアウトするわけじゃないんだし」
「うーん…それは、どうかな…」
 シャットアウトしない、ってのは賛成し難い。
「しっかりした判断力と人間の感情を持っている人だって気がするけど。僕は。由綺の成功のためには、あんな人が絶対必要なんだろうね」
「なんか彰は弥生さんをえらく買うなぁ。あんな感じの年上も好みだったりして。美咲さんとは随分雰囲気違うけどなぁ」
「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ。冬弥は由綺をどうするの」
 ふぅ…
 彰に心配されてちゃ終わりだな。
「待ってるよ。待っていて、いつか関係を取り戻す」
「取り戻すって…」
「今はそう考えてるだけ。今俺に出来る事は、たまにここに来る由綺と会うことくらいさ」
「じゃあなんで、取り戻すって…」
「その辺は、いろいろ」
 彰は相当何かを言いたそうだったが、黙り込んだ。
 店長が聞いているらしいラジオのノイズだけが、店内にかかっているレコードの音に混じって聞こえてくる。
「お店、閉めようか」
「ああ」
 それから、由綺には音楽祭の時以上に会うことが出来なかった。1ヶ月に2回も会えたかどうか、というところだ。会えても、近況をお互いに交わすくらいで、込み入った話も出来ないほどだった。
 弥生さんには、由綺よりは会うことが出来た。
「由綺は、どうですか?」
 ハーブティのカップをテーブルに置きながら聞く。
「頑張っておられますわ。北京語とハイナン語を両方練習されていますから、負担も並大抵ではありませんが。それを歌唱にするとなると、また話は違いますし」
 初めて会ったときに比べると、弥生さんは普通の情報を普通に伝えてくれるようになっていた。少なくともコミュニケーションが成立しているという事を感じる事は出来る。
「俺、ここでも由綺に全然会えないんですけど…電話もかかってきませんし…いつでも由綺の事心配しているって、お願いですから伝えてもらえませんか」
「かしこまりました。何よりの励みになるはずですわ」
 由綺の中国行きプロジェクトが決まってからだろうか。弥生さんが、俺と由綺の間に入ろうとする意思が全然感じられなくなっていた。物理的に俺と由綺が会えなくなったという事だけが原因とも思えない。だったら、音楽祭の時にももっと柔軟に対処してくれて良かったように思える。
「弥生さん…最近、疲れてませんか?」
「そう見えますでしょうか?」
 弥生さんはラヴェンダーの香りが漂うハーブティをすっと口に運ぶ。
 そのまま、弥生さんの瞳はどことも知れない虚空を見つめた。
「そうかもしれませんわね」
「いつか、俺に自己管理をきちんとしろって言ったのは弥生さんですよ…」
「そうでしたわね」
 弥生さんは、ふっと口元に笑いを浮かべた。
「ありがとうございます」
「あ…はい」
 その夜、俺は釈然としない思いで弥生さんが出ていくのを見送った。
 やがて5月が過ぎ、6月が過ぎ、7月を迎えた。


 カラカラン…
「いらっしゃいませ」
 カウベルの音と同時に、反射的に言葉が出てくる。
「あ…」
「冬弥君?お久しぶり」
 理奈ちゃん…。
「あら」
 その後ろから、弥生さんが現れた。
 そっか、今弥生さんは理奈ちゃんのマネージャーやってるんだ…
「驚いた?それとも、前から知ってた?」
「うん、前に聞いてた…」
「そう。おかげさまで、有能なマネージャーさんと仕事をさせて頂いています」
「ははは…」
 理奈ちゃんはそんな台詞を残して、奥のテーブルの方に向かった。
 弥生さんは理奈ちゃんをすぐには追わず、俺の方をちらりと見る。
「弥生さん…由綺、ちゃんと台湾行けましたか?」
「…ええ。この4ヶ月間、音楽祭の時と同レベル以上に頑張っておられましたから。緒方さんも。ですから、プロジェクトの成功という意味では100%と申し上げても問題ないでしょう」
「そうですか…」
 結局、由綺からは、台湾行きの直前の電話連絡も無かった。
 どうかすると、由綺の声や微笑みすら忘れてしまいそうになる。そんな日々に対して、俺はどうする事も出来なかった。打ち込むべき他のものを見つけるのも、由綺に対する思いの絶ち切りを宣言しているようで、できなかった。
 はっきり言って、俺はかなり精神的に参っていた。
 彰やはるかの気遣いは嬉しかったし、卒論や就活で忙しい美咲さんに時折会うことも心の安らぎになった。それでも、心の欠落は埋めようもない。次々と空いていく穴を、半分も埋められずに悶々としていたようなものだ。
「由綺、俺のこと覚えていてくれるかな…なんだか、不安になってきましたよ」
 俺はそんな台詞を弥生さんにぶつけて自嘲する。だいぶ自棄になっているのは否定しない。男としての矜持を捨てつつあるのも否定しない。
 だが、弥生さんは軽蔑の色も同情の色も見せなかった。
「藤井さん、申し上げたはずです…寂しい時は、私がお相手すると」
 あ…
 弥生さんは、その台詞を、きちんと俺の目を見て言ってくれた。
 そして何事も無かったかのように、理奈ちゃんのテーブルの方に歩いていく。
 コツコツと、ヒールの音が柔らかめに残った。
 去年の暮れにも、今年の春にも聞いたはずの台詞。
 それが、今は妙に温かみをもって感じられた。
 きっと、俺自身が弱くなりつつあるのが原因なのだろう。どんな助けでも、あればすがりたい気分だったんだろう。蝶番が弱くなったドアから、水が侵入してきたにすぎない。
 でも、そんな自分に腹を立てる気にもなれなかった。俺はありとあらゆる力を失いつつあったのだ。
 そんな事を考えながら、俺は冷やタンを二つ機械的に準備して、理奈ちゃん達のテーブルに運んだ。
「今日は、何にする?」
「あ…冬弥君、ありがとう」
 俺は理奈ちゃんと弥生さんの前にお冷やを置く。
 理奈ちゃんにお冷やを出すのも弥生さんにお冷やを出すのも幾度と無く繰り返してきた行為だけど、この二人に同時に出すというのは何となく不思議な気分だった。
「ハーブティ。ジャーマン・カモミールブレンドね」
「私は、ミントブレンドを」
「あれ?理奈ちゃん、ハーブティ好きだっけ?」
「ううん。弥生さんが飲んでいるのを見て、試したら結構好きになっちゃって」
「へぇ…」
 俺は店の奥に引っ込んで、頼まれたハーブティを準備する。
 ハーブティなんてマニアックなものという印象を俺は持っていたが、これが意外にも良く出る。弥生さんだけではない、お客さん10人に1人くらいは頼んでいるのではないだろうか。この店の客層を反映しているのか、今の流行りを反映しているのかは俺にはわからないが。
 いずれにせよ、ダージリンとスリランカの区別がつかない人間が入っていくような世界ではないようだ。
 ハーブティを持って行くと、理奈ちゃんは弥生さんと何か話をしているようだった。と言うより、理奈ちゃんが弥生さんに一方的に話しているみたいだが。
 何を話しているのかは分からないが、「兄さん」という言葉は聞こえたように思える。
「お待ちどうさま…?」
 俺は様子をうかがいつつ、横からハーブティを差し出す。
「結局、あなたは…あ。ありがとう、冬弥君」
 理奈ちゃんは俺に気づくと、話を切り上げた。
「カモミールが理奈ちゃんで、ミントが弥生さんね」
 俺は二種類のハーブの香りの中、どうしたものか迷う。
「今も話していたんだけど。兄さんの件、本当にごめんなさいね…」
「え?」
 俺が話しかける前に、理奈ちゃんの方が話しかけてきてくれた。
「決まってるじゃない。由綺のことよ」
「あ…」
「正面切って冬弥君と対決するでもなし、説明をするでもなし。妹として、あんな兄恥ずかしいわよ」
 俺はどう返答したものか迷う。
「私は、今回の話、猛反対したの」
「今回の?」
「台湾。これだけ意図がミエミエなんだもの。ほっとけないでしょ」
 俺は弥生さんの方を見てみる。弥生さんは何も聞こえていないかのように、ハーブティを飲んでいた。
「だけど、のらくら逃げ回って進めちゃって。地方に行く私の仕事が急に増えたり、なりふり構わずってのはああいう男の事を指すのね」
「でも、英二さんは英二さんで由綺の事を考えているんじゃ…」
「だったら、まず冬弥君にしっかり説明して、由綺も納得してからってのが筋ってもんでしょっ!?」
 かちゃん!
 ハーブティが零れるのも気にしていないようだった。
「とにかく。今から私が台湾に飛ぶわけにもいかないし、これから1ヶ月はしょうがないでしょうね。でも、由綺の性格を考えれば、そう簡単に兄さんの誘惑に負けたりはしないでしょうし。1ヶ月後からが勝負なのよ」
「しょ、勝負…?」
「兄さんが一度日本に帰ってくれば、私が動けるわ。冬弥君もね」
「俺が?」
「そうよ。この話の一番の当事者って冬弥くんじゃないの!しっかりしてよ!」
「ご、ごめん…」
 迫力に押されて、謝る。
「その時、篠塚さんにも協力して欲しくて。その話をしてたの」
「はぁ…」
 とりあえず、理奈ちゃんが何をしようとしているのかは飲み込めた。
 もう一度弥生さんに目を向けてみる。
 理奈ちゃんも、弥生さんに目を向けた。
 …ちゃっ。
 弥生さんがカップをソーサーに置く。
「理奈さん、時間です。参りましょう」
「な…」
 理奈ちゃんが大きく目を見開く。
「ちょっと!篠塚さん、私の話、聞いてたの!?」
「ええ」
「あのねぇ!ほら、冬弥君も何か言ってよ!」
「え…あの…」
 弥生さんは立ち上がって、入り口の方に歩いていってしまう。
「もう…」
 時間だというのは本当なのだろう。相変わらず慌ただしい。
 理奈ちゃんは仕方ないと言った感じで立ち上がる。
「私、今の話、本気だから。篠塚さんを説得できたら、冬弥君にも連絡行くと思うわ」
「うん…」
 理奈ちゃんは真剣みたいだったし、それが善意から来ているものであるのは間違いないようだった。少し暴走気味に思えたけど、やはり嬉しかった。
「それじゃあ、またここ来たとき会いましょうね」
 理奈ちゃんは小走りに弥生さんを追っていく。
 後には、全く手をつけられずに少し零されたカモミールティーと、底にほんの少しだけ液体を残したミントティーのカップだけが残された。
 こうやって、俺はまた空いた穴を埋めていくんだろう。


 トゥルルルルルルッ。
 レポートを書いているときに、突然電話が鳴った。
 俺はシャーペンの手を止めて、受話器に手を伸ばす。
「はい、藤井です」
「緒方プロダクションの篠塚ですが」
 弥生さん?
 この人から電話が掛かってくるときは、大抵タダでは済まない事が起こる。
「冬弥ですけど…」
「これから、お時間よろしいですか?」
「これから、ですか?」
「はい、よろしいですか?」
「構いませんけど…」
「では、15分後に藤井さんのお宅に伺わせて頂きます。それでは」
 要件だけを簡潔に済ませる、いつもの弥生さんらしい電話だ。
 何の目的なのか考え始めると、すぐに数日前の理奈ちゃんの姿が浮かんできた。
 まさか、本当に説得されて来る…なんて事はないよな。対緒方英二共同戦線。冬弥・理奈・弥生。考えただけで頭が痛くなる組み合わせだ。
 とりあえず、弥生さんが家に中に来る可能性もある。俺は、レポート用紙を引き出しの中にしまいこんだ。
 幸い部屋はそんなに散らかっていなかったので、掃除には手間取らなかった。洗い物が少し残っているが、仕方ないだろう。
 ピンポーン。
 そしてインターホンが鳴る。
「はい」
『篠塚ですが』
「はい、ちょっと待っててください」
 計ったわけではないが、きっと15分きっかりで到着しているんだろう。
 がちゃっ。
「あ、どうも…」
「申し訳ありません。あの後、突然電話が掛かってきまして。少々遅れてしまいました」
「いえ、別に」
 遅れてたのか…きっと、多くて5分くらいの話なんだろうに。
「とりあえず、上がってください。外、暑いですし」
「恐れ入ります」
 弥生さんが、俺の部屋に入ってくる。
 半年前とは、また違った意味での緊張があった。その割に、俺は落ち着いている。
 なんでかな…
 俺は床に座った弥生さんをちらりと盗み見る。
 いつか由綺は弥生さんが優しい人だと言ってた。俺には見えない弥生さんの表情の変化も、由綺には見えているようだった。
 今の弥生さんの顔は…
「少々お話がありまして」
「そうですか」
 観察の前に、会話が開始されてしまった。その瞬間、弥生さんの顔に生じていたように見える違和感がかき消える。そこにいるのは、あの事務的でクールな弥生さんだ。
 ってことは、部屋に入って来たときの弥生さんの顔に、俺はクールじゃないものを見ていたのか?
「藤井さん、先日『エコーズ』でお会いした時、不安を感じているとおっしゃいましたね」
「言いましたね」
「私(わたくし)、最近はあのお店に行く頻度が不定期になったものですから。藤井さんの方から連絡頂くのは、難しいかと思いまして…私の方から参りました」
 なんだって?
「ちょっと待ってください。てことは、今日弥生さんが来たのは」
「ええ」
 弥生さんはすっと立ち上がる。ストッキングがフローリングに擦れる微かな音が立つ。
「だから、待ってください」
 弥生さんは不思議そうな顔をして俺を見た。俺はまだ床に座っていたので、見下ろされるみたいな格好になる。
「そんなの、全然『お話』じゃないじゃないですか」
 俺も立ち上がりながら言う。
 弥生さんは滑るように一歩にじり寄ってきた。音のないプレッシャーが生まれる。
「寂しく…ないのですか?」
 蠱惑的。半年前と変わらない。
 だが、状況が状況だけに、俺はそんな簡単に飲まれなかった。
「何を考えているのかわかりませんけど、冷静になってください。全然弥生さんらしくないですよ」
 目的のためには直情的な弥生さんのことだから、この行動もひょっとすると何らかの目的に基づいたものかもしれないとは思った。
「私…らしく、ですか?」
 だが、意外にも弥生さんは俺の言葉に動揺の素振りを見せた。
 やっぱり、全然弥生さんらしくない。
「少し、落ち着いてください。とりあえず、俺は『お話』したいですし」
 俺は先に床に座って、弥生さんを見上げた。
 弥生さんはなかなか座ってくれなかった。少し揺れた瞳で、ずっと俺の事を見つめていた。少しと言っても、本当に微少な動きなのだが、それでも弥生さんの表情に現れた変化としては一大事だ。
「…そうですね」
 不意に弥生さんが言う。
 俺の返事に対する返答だと気づくのに、少しかかる。
 そして、フローリングとストッキングが擦れる音がした。俺と弥生さんは、さっきと同じ距離をもって対する。
「いくつか、質問してもいいですか?弥生さん」
 弥生さんは沈黙したままだ。だが、俺はそれを無言の肯定と解釈してしまうことにした。
「まず、理奈ちゃんの件なんですけど。あの話、関わらないんですよね?」
「ええ」
 弥生さんの唇が開く。
「理奈さんは、緒方さんに、複雑な感情を抱いていらっしゃいますから–––同時に由綺さんにも。表面に現れる行動が、多少屈折されているようですね」
「まぁ、そうなんでしょうね」
「私は現在理奈さんのマネージャーですから。理奈さんが余計な事に気を使われないよう、仕事に専念されるように動くだけです」
 理奈ちゃんと弥生さんの関係は多少ぎくしゃくしたものになりそうだが、そっちは何とかなるようだ。場合によっては、「エコーズ」で会ったときに俺が少しフォローしてもいいだろう。
「わかりました。それで…」
 俺は一呼吸、いや二呼吸置く。
「英二さんについて、教えてくれませんか?」
 俺は曖昧な聞き方をした。
 昔の弥生さんになら、そんな問いは無意味だったろう。だが、俺は弥生さんとの間に一つのコミュニケーションを築けているという予感を抱いていた。それに賭けることをする。
 さっき、立って相対した時以上に長い時が流れる。それでも俺はじっと待った。そして、待てた。
「あの方は」
「…はい」
「あの方は…私には、よくわかりません」
「わかりませんか」
「由綺さんに恋愛感情を抱いておられる事は、前々から知っておりました」
 それはいつかBMWの中で聞いた気がする。
「しかし、周囲にはっきり察知される形で、あのような行動をされたのは計算外…いえ、私の思考の埒外でしたわ」
「俺も、そうですね。弥生さんほど論理的な思考ではなかったですけど」
「ただ、由綺さんとの関係はこれまでとさほど変化されていなかったようです。音楽祭の時も毎日のように長時間会われていたわけですが、その時の関係とそう変わるものではありませんでした。つまり、プロデューサーと歌手の関係という事になりますわね。もっとも…」
 弥生さんが俺を見据える。
「今…台湾にいらっしゃるお二人が、どういう関係になられたのかは、私に察知することは出来ません。想像することすら、出来ません」
 英二さんも由綺も弥生さんに電話連絡くらいはしているだろうが、その時にそんな話が出るわけもない。
「それ以上のことは…」
 弥生さんは口を閉ざす。
 表面上は、嘘に聞こえる話ではない。いざとなれば弥生さんはどんな嘘もつくだろうが、この状況下でこの程度の嘘をつく事に何のメリットがあるのか。合理主義者の弥生さんが。
 だが、俺が弥生さんの言葉を信用する気になったのは、このプロジェクトが決まって以来感じていた違和感によるものが大きいだろう。弥生さんの「らしくなさ」を見るにつけ、それはどんどん大きくなっていく。
「弥生さん。台湾行きが決まった時、確か俺、言いましたよね…」
 4ヶ月前の会話が、ありありと浮かんでくる。一つ一つのフレーズ、お互いの息づかいまで。
「弥生さんは、それでいいんですか、って…」
 俺は弥生さんの目をじっと見つめる。長い髪に透かされた、その向こうの右目も見えてくるように思えた。
「その時、割と曖昧な返事しかもらえなかったんですけど。できれば、もう少しはっきりした形で答えてもらえませんか?」
 完全に場のアドバンテージを握っている事に戸惑いつつも、俺は言った。
 エアコンの静かな送風がしばし場を支配する。冷ややかな機械音は、放っておくと弥生さんの力を少しずつ回復していくようにも思えてしまう。そんなのは幻想だという事を、俺は薄々感じつつあったが。
「…やはり、少々曖昧なお話になるかもしれませんが」
「…構いませんよ」
 単刀直入が信条の人だと思っていたが、それは常に適用できるものでもないらしい。俺は、既にその事を不可思議だと思わなかった。
「私、これまで誰かを好きになったことがございませんでした」
「はい」
「由綺さんにお会いするまでは」
 ………
 俺は右手を顎に当てて–––あまり似合わない仕草かもしれないが–––弥生さんの話に耳を傾ける。
「学生の頃、とても私に愛情をもってくださった男性の方がいらっしゃいまして。年下の方でしたけれど…私に、憧れにも近い感情をお持ちでして」
 そうだろう。
 弥生さんは、常に憧れとか信仰の対象になるタイプの人だったのだ。昔から。
「一度だけその方のお誘いを受けて…その夜、抱かれました」
 こういう話にも拘わらず、英二さん達の話をしている時よりも淡々としているようにすら思える。
「何の感動も、ありませんでした。処女を捧げた相手なのに、何の感情も、愛情も感じられず…ただ……嘘寒くて…。私を抱きながら、その方が、次第に悲しみに支配されてゆくのだけが感じられましたわ」
 悲劇的な話だ。でも、なぜか俺はその男にも弥生さんにも、それほどの同情心を覚えなかった。
「男性の方とは、それきりでしたわ。それから、悪戯半分に女性の方々と愛し合う事を覚えました」
 俺は瞬きを一つする。
「どう思われても構いません。女性の方とは幾度と無く夜を過ごしましたが…愛情を感じることは、やはり、できませんでした」
 それで、か…
 俺が味わわされていたあの不思議な快感は、男に対するものではなく、女性に対するそれだったのだ。
「私は、それでいいと思っておりましたのに…。偶然とは残酷なものですね。私を、由綺さんに出会わさせるんですもの…」
「由綺…」
「素晴らしい女性でした、由綺さんは。未知数の才能に溢れ、それを探すことを忘れず、それでいて、自分の温度を見失わず。一緒にいるだけで、私も、欠落した何かを見つけられそうで…」
 俺はその時、ずっと忘れていた由綺の微笑みを思い出したような気がした。
 そう。そうなんだ。由綺の微笑みは、いつだって周りの人間に失った何かを思い出させる。由綺は、そういう人間なんだ。
 しかし、俺………、俺は今その由綺の微笑みを失いつつある?
「私は、由綺さんを愛しております」
 弥生さんはきっぱりと言い放った。
 俺はその瞳をきっと見つめ返す。怒りでも嫉妬でもない、何か極めて特殊な感情に基づく視線だった。
 弥生さんの唇が少し動いて、でも言葉が出てこない。また少し動いて、やはり出てこない。
「………私は、藤井さんに嫉妬しました。恋人ということ、ではなく、彼女にとって必要な存在ということで…」
 それは、俺だって同じだ…。
「それが今は…」
 弥生さんは大きく息を吐き出す。
「それが今は…」
 弥生さんは繰り返す。思わず、俺は顔を上げた。
 それに呼応するかのように、弥生さんが立ち上がる。
「弥生さん…?」
 こちらに歩み寄ってくる。その動きは、どこかふらついているようにすら見えた。
「弥生さん!」
 立ち上がりながら、強く言う。
 だが、弥生さんの動きは止まらなかった。一瞬つんのめったようになったかと思うと、俺の体躯に倒れ込んでくる。
 俺は反射的に、弥生さんの身体を抱きかかえていた。
 幾度と無く弥生さんと性的行為を繰り返したにも拘わらず、俺はこの滑らかなスーツ生地の感覚を感じた事が無かった。
「やはり…私が誰かを愛してなどいけなかったのですね…」
 不安定な姿勢のまま、弥生さんは言う。
 俺は身体をぐっと前に出して、弥生さんをしっかりと抱き留める。
「俺も、同じかもしれませんよ…」
「藤井さん…?」
「誰かを愛する…資格…ですよ…」
 自嘲…ですらない。そんなナルシスティックな感情は、もう消え去っていた。ただの、自分の弱さの表明…。
 その表明は、何の目的のためか…。
 弥生さんの表情を窺い知る事は出来なかった。
 しかし、程なく弥生さんの両腕が俺の事をぐっとつなぎ止めてきた。
 スーツ生地の擦れる音が、妙にこそこそして聞こえた。
 こうして、奇妙なゲームは幾度も姿を変えて俺達の前に現れてくる。


 俺がベッドに横になる、下着姿になった弥生さんがベッドにゆっくりと上がってくる。その構図だけはいつまで経っても全く変わらない。
 弥生さんはゆらりと俺の視界の中に現れ、軽く俺に唇を合わせる。ルージュの存在がほとんど知覚できないくらいの、浅い口づけだ。それから唇を滑らせ、俺の首筋を掠めさせる。
 その瞬間、悪寒にも近い、麻痺性の快感が全身に沸く。
 俺が硬直する間に、弥生さんは素早く自分の身体全体を下にずらす。そして、ジーンズの上から俺の股間をきゅっと押さえつける。微細な快感の綱渡りに、俺のペニスには加速度的に血流が送られつつあった。
 弥生さんは膨らみ始めた部分の頂点を、指先でノックするかのようにつつく。始めは思い出したようにつつくだけだったが、膨張と同期するかのようにそのスピードが上がる。指先が踊るかのように速いステップを踏む。その刺激が、薄目のジーンズの生地を通して、少し鈍くなって届く。
「や、弥生さん…」
 俺が情けない声を上げても、弥生さんは指先だけでの動きを続けた。叩く動作ではなく、頂点の部分を中心として円を描くようになぞる動きに変わる。その圧力も、さっきと同じように次第に増していく。俺のペニスはこれ以上ないというほどに硬く膨張した。
 それを感じ取ったのか、弥生さんはジーンズのホックを外す。それだけでジーンズのチャックが少し下にずれる。弥生さんはチャックを一気に下まで降ろし、間を置かずにジーンズとトランクスの裾を同時に掴んで降ろした。タイト気味のジーンズが、スライドするように脱げる。俺のペニスが、弥生さんの前に露わになる。
 既に液体を垂らし初めてしまっていたそれを、弥生さんは躊躇無く口に含んだ。溶けるような暖かい感触が、敏感な先端部分を包み込む。危うく、声すら漏らしそうになる。
 だが弥生さんは、それを一度解放した。そして、姿勢を変えて、俺の顔の方に足を向ける。それから少し腰を落とす。
 俺は両手を伸ばし、弥生さんのパンティーストッキングを掴んだ。少し慎重に、巻くようにそれを脱がしていく。少し不自由な体勢だったが、弥生さんが身体を浮かしてくれるのに合わせ、何とかそれを抜き取った。
 それから黒いランジェリーに手をかける。こちらは最低限、秘部がわずかに見える程度にしかずらさなかった。
 影になっているため多少見にくかったが、弥生さんの秘部は成熟はしているにも拘わらずこれといった特徴を感じさせないものだ。身体の他の部分と同じように。だからこそ均整で、清潔的な美しさを感じさせるのだ。
 俺は弥生さんの足の間を通すようにして、身体全体を頭一つ分下にずらした。そして身体を持ち上げ、弥生さんの秘裂に顔を近づける。舌を突き出すようにして、秘裂の表面に触れさせる。
 ………!
 弥生さんが再び俺のペニスを含むのと、同時だった。今度はさっきと違い、口腔全体でペニスの根本まで包み込んでくるような感触がある。溶けるような感覚が、時折弥生さんの上顎と思われる固さにも遭遇する。舌は俺のペニス全体にねっとりと絡みついてくる。
 俺は弥生さんの激しいフェラチオに対応させるかのように、舌を尖らせて秘裂の間へ差し込む。
 ぷちゅっ…
 熱いものが、秘裂の隙間から漏れ出す感覚があった。一瞬遅れて、酸味を持つ、恐ろしく快楽神経に響く香りに満ちた液体だとわかる。
 俺自身は、弥生さんの身体にほとんど何もしていないのに。
 性的交渉の経験の豊富さは、弥生さんの身体をセックスにも都合よいものに仕立て上げていたようだった。女性同士がどのように愛し合うのかわからいないが、結合が無い分快楽の引き出し方にはより気を使うのではないのだろうかと、勝手に俺は想像した。
 秘裂全体をこじ開けるようにして、舌を動かしてみる。たっぷりと液体を含んだ、柔らかく弾力のある感触が返ってきた。
 その時、弥生さんがくっと腰を引くようにする。
 俺の行為によって弥生さんが制御できない快楽を感じているという事実を見て、俺は想像以上に興奮した。
 弥生さんは、お返しとばかりにペニスをしごき上げるような強い刺激を与えてくる。それに対し、俺は秘裂の上にある突起を探り当てると、それを擦るように舐め上げる。丁寧に扱おうという思考は、お互いの頭から消え去っていた。
「ぅ…」
 弥生さんの唇から、微かな声が漏れたような気がした。
 俺は調子に乗って、集中的に突起を攻撃する。変化も何もなく、単に強く舌の全体で舐め立てているだけだ。
 弥生さんは余裕を失ったかのように、ペニスに加える刺激を単調にする。弥生さんは俺がずるっと舐める度にひっきりなしに腰を引こうとしていたが、俺は両腕で弥生さんの腰を固定し、逃がさなかった。
 そして、5回もその行為を繰り返した所で、突如弥生さんの腰がぶるっと震える。
 え…
 一瞬その動きは止まったが、俺が舌をまた動かそうとすると、弥生さんの腰は、びくっ、びくっと周期的に痙攣のような動きを繰り返した。
 「エクスタシー?」
 俺は変な優越感を覚えた。
 それから、俺は弥生さんにフェラチオを続けさせた。白濁液は、弥生さんの口の中に吐き出した。
 俺はペニスの脈動が収まっても、動かずに弥生さんの秘部をじっと見つめていた。しばらくして、弥生さんが液体を飲み下す音が、少し躊躇しているかのような間隔を置いてから聞こえてきた。


「英二さんについて、教えてくれませんか?」
 俺は、同じ質問をする。
「あの方は…」
「…はい」
 返ってくる答えを予想しつつも、俺は相槌を打つ。
「あの方は…私には、よくわかりません」
 弥生さんは全く同じ口調で、全く同じ返答をした。
 俺はその瞳をじっと見つめる。
「結局、俺達は」
 二人の瞳が合った。
「英二さんにいつの間にか依存していたんですね。俺と弥生さんと理奈ちゃん、それから…」
「由綺さんは」
 弥生さんが口を挟む。少し意外だったが、俺は黙る事にした。
「緒方さんを尊敬していらっしゃいますし、信頼も置いていらっしゃいます。ですが」
 弥生さんの口調はいつの間にか、事務的だが絶対の自信を内包した普段のそれに戻っていた。
「由綺さんが緒方さんの一部となられる事はないでしょう。絶対に」
 俺は大きな違和感に囚われる。
「……同感、したいですね」
「そうですか」
 なんでこの段階に至って、由綺に対して盲目的なまでの信頼を置くことが出来るのかは、俺にはわからなかった。ただ、俺にはない何かを弥生さんが持っているという理解が生まれただけだ。そんなものは初対面の時から持っていたはずなのに。
 それから俺には弥生さんに対する破壊的なセックスが習慣となった。